盛岡タイムス Web News 2011年 5月 23日 (月)

       

■ 〈不屈の意志〉IBC岩手放送・阿部正樹社長に聞く ラジオが安心感

 IBC岩手放送の阿部正樹社長に、東日本大震災津波に伴うラジオ放送の対応や、地域復興の見通しなどを聞いた。地震直後は全県にわたる停電で、IT社会は一時的に機能停止した。その半面、電池式のラジオがいち早くに情報を伝達し、放送の原点の強みを発揮した。被災者にラジオを提供するキャンペーンを張り、全国の協力の窓口になった。(鎌田大介)

  -震災後の状況は。

  阿部 災害報道用の自家発電装置で何とかカバーし電波は守った。停電でテレビで先に津波の惨状を理解したのは関東関西の視聴者だった。地元のわれわれはワンセグや車載テレビで見た人はいるが。その中でラジオが非常に良かったと言われた。聞き慣れたアナウンサーが落ち着いて惨状を読み上げ、大変なことになるという意識の中でも、安心感があったという。

  自分が無事ということを伝える手立てとして、ラジオで安心情報がどんどん流れた。停電が明けてテレビで津波を見たとき、ラジオのイメージを超えていた。ラジオは想像力、テレビはそのもの。それぞれ持つ特性の違いが明確になった。

  -どのような報道態勢だったか。

  阿部 系列のニュース協定を結んでいるところがどんどん入ってくる。われわれも琉球放送から取材陣が手伝いに来た。名古屋の放送局が今でもいるが、デスクほか含めて取材陣のキーポジションに名古屋、北海道の放送局が入ってコントロールして。われわれのスタッフだけでは足りない。衛星中継車と取材陣が来て、ひと頃は4、50人一度に入った。

  最初はできごとを追いかけ、次は被災者の人生に視点を置き、次は復興のプロセスに入る。長丁場で応援の取材陣は帰るだろう。最後に被災者のそばにいるメディアは地元局しかない。そういう放送局でありたい。被災者と喜怒哀楽を一緒にしながら、郷土の復興がどうなるのか、復興のための手助けが地元放送局の仕事だと思っている。

  被災者は体ひとつで逃げ出し、ラジオを持っている人があまりいなかった。避難所ではラジオ情報に群がっていた。わが社でいち早くラジオを被災地に届けようと局の謝礼物品を出した。それでは全然足りないので県民に呼びかけた。電池入りですぐ使える物をIBC本社に持ってきてほしいとお願いしたら、停電の夜中にかかわらず何かしてやりたいという思いのラジオが1週間で800台くらい集まった。

  最初は県の義援物資を運ぶところに持って行ったが、それよりは直接避難所に運んだ方がいいと社員が直接避難所に配った。それが全国に広まり、TBSなど東京の放送局が被災地にラジオを送る運動をして、九州の大分放送でも運動が起き、全国から数千台集まりそれを配った。今回はラジオが見直された。営業的には大変厳しい媒体だが、やはりラジオだという声が出て大変うれしい。今は携帯電話から何でも出てくる時代で、ラジオは隅に追いやられていたが、初めてありがたいと思ったという声がたくさんあった。一朝一夕ある中で、最後はラジオだった。

  -三陸沿岸のため何ができるか。

  阿部 漁業は船をどうするのかから始まり、魚を取ってきて、陸に揚げて、冷蔵庫はあるのか、仲買がいるのか、魚市場は機能しているか、加工工場は大丈夫か、魚を取ればいいのではなく全部一連のこと。国はなるべく早く一連の流れをどう元に戻すかやらねば。ただ船を手当てすればいいというものでもない。産業はひとつだけでなく全部関連している。そういう意味で早く、お金の心配をあまりあまりせず、システム構築を国がやらないと進まない。

  あとは復興議論よりまず働く場所を確保して。働く場所がないと生きがいがない。がれきの山に立ったとき町村合併もありうると感じた。そこに住む人たちが決めることだが、復興計画を決めるなら町をどうするか、共同体をどうするか、あまり地域エゴにとらわれず、全体像と復興を考えるためには町村の枠を超える。町村単位では限度があると思う。

  この間、「はまゆり」の船を撤去したが、あえて残して津波の惨状を後世に伝える必要があったのではないか。原爆ドームも被爆者には辛いという気持ちはあったろうが、後世のため残そうと。それを中心に平和公園を作った、先を考える叡智(えいち)を発揮すべきではないか。震災メモリアルとして遺跡に残し、世界の研究者が来て、津波や防災の国内外の研究機関を招致してはどうか。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします