盛岡タイムス Web News 2011年 6月 1日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉231 伊藤幸子 「しろがねの花」

 桜花時は過ぎねど見る人の恋の盛りと今し散るらむ
                     作者未詳(万葉集・巻一〇)
 
  天変地異の春、ことしは花の季節が遅かった。千年に一度の震嘯(しんしょう)といわれるが、千年前のいにしえ人たちは、地が裂け、海が盛り上がる場面に居合わせたら、どんな行動を取ったろうか。雲の動きや風の音に、また身めぐりの動植物の生態にも、現代人よりははるかに鋭敏な感覚を備えていたと思われる。

  この歌、大意は「桜の花は、時節が過ぎたわけではないのに、人々の盛んに賞美するのは今だと判断していまこそ散るのであろう」(岩波日本古典文学大系)。「恋の盛りと」に関しては「桜の花は、もう散らねばならない時だというのではないが、自分を見てくれる人が、最も美しいと思っている時は今だと判断して、今散るのだろう」との中西進さんの解説がわかりやすい。恋の絶頂即(そく)、美の絶頂との解釈。絶頂の美、絶頂の生命をもつ桜は古代、決して短命とか散りぎわを賞されたわけではなかった。

  さて5月も下旬、わがやのやまなしの花が散り始めた。例年5月3日のうぶすな神社の祭礼には満開になり、祭りをひきたたせるのに今年は半月余も遅れた。樹齢百年をこえているが、年末の豪雪で太い枝も折れてしまった。ざっくりと裂け目をさらす傷口を見ると、花守(も)りの媼(おうな)としては居ても立ってもいられなくなる。それでも時がきて、純白の花が天蓋をなして噴き上げ、咲きしだれ、生々しい傷口も隠して咲き満ちた。

  季節の遅れは農事の遅れに連鎖して、ようやく田植の最盛期を迎えた。人も車も早期から忙しく行き交う。遠景に公民館の屋根上にまで咲き盛るやまなしの花は、これぞ「時じくの」白花を見てほしいと叫んでいるような気がしてならない。私は憑(つ)かれたように、花の老木の周りを歩き廻る。

  一歩ごとによみがえりくる光景がある。昭和50年、大宅壮一ノンフィクション賞と田村俊子賞を受賞の、吉野せいさんの「洟をたらした神」の作品世界である。福島は梨の産地。阿武隈山脈南端の開拓地で昭和5年の冬、生後7ケ月の愛児、梨花を死なせてしまった痛恨の手記。75歳のあとがきに見える夫、三野混沌、草野心平、山村暮鳥、串田孫一さんらもみな故人になられた。過去世を偲(しの)ぶまっ白い花の渦に眩(くら)んで見上げると、甘い香りに誘われてあまたの蝶が寄ってきた。と、見る間にふっと空気の層がきらめいて、しろがねの花吹雪が嵐のように舞い立った。
(八幡平市、歌人)

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