盛岡タイムス Web News 2011年 6月 6日 (月)

       

■ 〈いわて和菓子列伝〉6 東雲(丸中・岩手町) ルーツは落雁

     
  丸中の「東雲」(しののめ)  
 
丸中の「東雲」(しののめ)
 
  20年ほど前になるだろうか。東雲(しののめ)に苦情があった。「硬い」というのだ。1人や2人ではない。苦情をぶつける人は少ない。「不満に思う客はその何倍もあるはずです。これはまずいと思いました」。岩手町の丸中代表の中島栄一さんは振り返る。

  「東雲はもともと硬いものでした。しばらくおくと歯がたたなくなるくらいと言われたものです。しかし変化するニーズに応えなくては」。

  ■ニーズに応えるために

  東雲は米粉、小麦粉、でんぷん、ゴマ、クルミを混ぜ、砂糖を煮詰めた蜜を入れてこねる。中島さんはお父さんから受け継いだ材料、配合でつくっていたが、配合を変えることにした。

  水分を多くすれば軟らかくなるが、過ぎると日持ちしなくなる。砂糖の配合を増やせば軟らかめになるが、甘みとのバランスがある。砂糖を減らしすぎると硬くなる。日持ちも関係してくる。蜜の温度によっても硬さは変わってくる。

  米粉の配合を増やした。水分を増やしても軟らかくなるため、さまざまな配合や条件のパターンでデータをとりながら試食を繰り返す。複数の職人で試す。「はっきりと違いが分かるわけではありません」。その微妙な味わいをくみ取っていく。この配合、作り方でよいとなっても、気候やその日の気象によって、出来上がりは一定ではない。それでも「データをとりながらの試行錯誤はこだわりといえるかもしれません」。

  材料へのこだわり。米粉は何種類かブレンドしたものを仕入れるのだが、「粒が粗く、水分がもっと少ない上南粉が欲しいですね」。上南粉は打物に使う目の細かい粉。水分が少なければ天候に応じて水分の分量を調整しやすい。粒の粗さは食感に影響する。

  「粒が粗いと空気が隙間に入り餅のように固まり過ぎないのです。すしの握りは握りすぎるとむっちりしてしまう。生クリームやスポンジケーキも空気の抱きこみ方が左右します」。中島さんは自ら関わり続ける洋菓子と共通する微妙な味わいを話してくれた。

  取引のあった盛岡の菓子種業者に粒の粗さを調整してもらっていたのだが、廃業してしまった。大手の業者は個別の要望にこたえられない。盛岡の業者の廃業が配分を見直す引き金にもなった。

  ■苦心の材料探し

  新しい菓子種を求め全国からサンプルを取り寄せた。盛岡の業者と同じようなものは見つからなかったが、栃木の業者のものに決めた。別の業者から提供された岩手県産の米で加工した粉はもちもちとしすぎた。「餅にして食べるにはおいしいけれどお菓子にはあわないこともあるのです」。栃木周辺の米が東雲にマッチした。より納得のいく材料。「全国から取り入れたいです」。

  「すぐ食べないこともあるから数日置いたらどうなのかも考えなくてはいけません」。県産の米粉を使うと黒っぽくなった。栃木の業者の米粉では白い色が保たれた。

  東雲を食べてみた。パンを少し思い起こさせるようなふんわりとした素朴な味わいを感じた。適当な粉っぽさがある一方で心持ちもっちりとしている。甘くない。クルミがふんだんに混ざっている。ほのかな香り。しっとりとしたクルミの油。

  歯ごたえと弾力がある。小麦粉がきいているようだ。少しもっちりとした食感は上南粉を使うことにもよるという。同じ「もちもち」でも「いろいろなものを使うことで深みが出ます」。

  もちもちといっても引っ張って伸びはしない。ぶちっと切れる。もちもちと反対のさくっとした粉っぽさはでんぷんによる。「もちもちとしすぎないよう持ち直す調整役です」。「東雲は名物として確立したカテゴリーのお菓子ではありません。だからどこにもない食感や味わいがあるオリジナリティーがなくては駄目です。そこがまた難しいのです」。

  ■ルーツは落雁
     
  理想の菓子作りへ「悩みも尽きることはない」と話す中島栄一さん  
 
理想の菓子作りへ「悩みも尽きることはない」と話す中島栄一さん
 

  材料が共通するものが多い落雁と似ているが、つくり方はやはり違う。

  だが東雲は落雁がルーツだった。東雲を考案したのは父親の叔父。もともと落雁をつくっていた。型にいれるとはみ出す耳が大量に出る。残った材料を使っておいしいお菓子に再生して生まれ変わらせたのが東雲だった。

  東雲は昭和22、23年頃に売り出されたとされるが、いつからとはっきりしているわけではない。当初失敗したものは親戚に配るなどした。やがて売り物になるものができていった。お父さんと叔父さんがいっしょにつくっていたが、その後、2人が独立して店を構えたため、お父さんはつくらなかった時期があった。

  叔父さんが年をとってつくらなくなり、再開したが、「私が小学生の頃でしたか、父がこれでは売れないといって苦労していたのを覚えています」。ブランクがあったためかもしれない。

  お父さんは効率を考えて工程を見直した。叔父さんはそばうちのように練った材料をのばしてから切
っていた。しかしお父さんは型をつくり、練った材料を型に入れて切る。

  小麦粉やでんぷんを加えるなど材料も見直したかもしれないが、分からない。というのも、中島さんがお父さんといっしょにつくったのは20代半ばの頃2年間だけだった。お父さんは病に倒れ、入院を経て亡くなった。

  「もっと東雲の誕生の頃など聞いておきたかった」という無念の気持があるだろう。しかし「ラッキーな2年でした」とも言う。「2年間がなければ東雲は途絶えていたでしょう」。

  ■命名者は国会議員

  東雲と命名したのは叔父さんやお父さんではない。柴田兵一郎氏だった。柴田氏は沼宮内町長などを務めた後に国会議員となった人。「命名は町長の時かどうかわかりませんが、当時町にはお土産になるものがないというので後押ししてくれたようです」。

  クルミの実は明け方の空の雲、ゴマはねぐらをたって飛び交う小鳥の群にそれぞれ見立てた。山里の風景を思いながら、豊かなひと時を過ごしてもらいたいという贈り手の気持ちが伝わりそうだ。

  仕上げの切る、包む以外は手作業。こねるのも人の手、へらで。「自分が食べておいしいと思うものを出します。10人のお客さんが食べて6人がおいしいといえば成功です」。家庭から出発した和菓子。試行錯誤の中から家庭から世の中に出て行く。出発の年代がはっきりしなくてもお父さんの叔父、お父さん、そして中島さんそれぞれのつくり手の苦労が東雲に詰まっている。変わるものと変わらないもの。「世の中が変化する限り、悩みもつきることはありません」。中島さんは静かに話す。
  (大谷洋樹=地域ライター)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします