盛岡タイムス Web News 2011年 6月 11日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉215 岡澤敏男 「赤い鳥」への挑戦

 ■『赤い鳥』への挑戦

  宮沢清六氏は大正7年7月、『赤い鳥』発刊直後の「この夏に、私は兄に『蜘蛛となめくぢと狸』『双子の星』を読んで聞かされたことを口調まではっきりおぼえている。」(「兄賢治の生涯」)と述べている。

  ところが現存する両作品の原稿用紙を点検して、この原稿用紙が童話草稿に使用された状況が「もっとも古いものでも大正10年以降」と分類され、両作品の朗読が大正7年の夏に行われたとする清六氏の記憶に疑念がはさまれている。だが賢治の作品は何度でも推敲を重ね改作されることも多いので、大正10年にそれまでの草稿がまとめられ清書されたと考える余地はある。

  そうした立場で井上寿彦氏や恩田逸夫氏は賢治が童話を書き始めた動機を、大正7年の『赤い鳥』創刊に関連づけて解釈している。

  特に井上氏は「賢治の『赤い鳥』への挑戦」において、状況証拠を詳細に連ねて『赤い鳥』へ搭載をめざす賢治の姿を追跡している。

  賢治童話の処女作「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」「貝の火」の3篇は大正7年6月〜8月に書かれているらしいが、『赤い鳥』創刊号の募集原稿の締切りが3月上旬だったので、応募されなかったという。

  その後7年〜10年までに応募要項に沿った作品を30篇(ちくま文庫版「宮沢賢治全集5」におおむね収録)ほど賢治は書いている。この期間にその何篇かの作品を何度か投稿(挑戦)したとする仮定もあるが、一度も採用されなかった。

  そこで賢治は「地方から中央の雑誌への投稿という形では限界があることを知って、自分の作品への評価を自分で確かめたいところまで来ていたであろう。そのためには、まず赤い鳥社へ行って直接鈴木三重吉に会って、真意を問わねばならなかった」それが大正10年1月23日の無断上京につながっていると井上氏は推理しているのです。

  しかし賢治がいつ『赤い鳥』社へ訪れたのか伝記資料に証するものがないので、井上氏は信頼性に乏しいがと断って多田幸正著『賢治童話の方法』から『赤い鳥』社を訪れた賢治の消息を、森荘已池と野町てい子(『赤い鳥』社事務員)によって伝えている。

  そのエピソートによれば三重吉が持ち込んだ原稿に目を通さず返却したので賢治は「沈うつな顔で帰って」行ったというのです。そして実証性のない訪問日は、多田幸正氏は七月中旬から下旬と仮定し、井上氏はもっと早く6月以前と仮定しています。

  いずれにしても、確証なく投稿された賢治作品は『赤い鳥』に掲載されることがなかったし、また、直接持ち込んだと仮定した原稿も書生が「先生(三重吉)は忙しくて、あの童話は読まれないといっておいでです」と、そっくり返したらしいから『赤い鳥』への挑戦は完敗だったとみられるのです。

  大正10年の上京中に賢治が『赤い鳥』社を訪問したという思惑は、大正10年7月13日に賢治が関徳弥にあてた書簡から生ずる蜃気楼なのかも知れません。賢治はそのなかに「私は書いたものを売らうと折角してゐます」と述べているので、賢治は原稿を売り込もうと『赤い鳥』社を訪れたという推理なのです。

  童話に対する賢治と鈴木三重吉の文学的認識はしょせん「水と油」の違いがあるものだから、もしも、三重吉が賢治作品を『赤い鳥』に掲載することがあったならば、それは新美南吉の「権狐」が「ごん狐」にされたよりも辛い憂き目に賢治が遭遇することになるのでしょう。

 ■賢治から関徳弥への書簡(抜粋)

   大正10年7月13日

  私は書いたものを売らうと折角してゐます。それは不真面目だとか真面目だとか言って下さるな。愉快な愉快な人生です。(中略)
図書館へ行って見ると毎日百人位の人が「小説の作り方」或は「創作への道」といふやうな本を借りようとしてゐます。なるほど書く丈けなら小説ぐらゐ雑作ないものはありませんからな。うまく書けば島田清次郎氏のやうに七万円位怱ちもうかる、天才の名はあがる。どうです。私がどんな顔をしてこの中で原稿を書いたり綴じたりしてゐるとお思ひですか。どんな顔もして居りません。
これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です。いくら字を並べても心にないものはてんで音の具合からとがふ。頭が痛くなる。同じ痛くなるにしても無用に痛くなる。
今日の手紙は調子が変でしょう。
斯う言う調子ですよ。近頃の私は。


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