盛岡タイムス Web News 2011年 6月 18日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉216 岡澤敏男 「赤い鳥」を教科書に

 ■『赤い鳥』を教科書に

  「鈴木三重吉は『赤い鳥』を教科書にするつもりでした」(昭和57年7月・『赤い鳥』と鈴木三重吉)と深沢省三は「赤い鳥の会」の座談で語っている。三重吉は「子どもの作文の養成」を『赤い鳥』のモットーとしていたので応募童話の草稿に執拗なまで加筆修正することが多かったという。新美南吉の「ごん狐」をめぐる添削の逸話はその好事例でしょう。

  この作品の原作は昭和6年10月14日、南吉が18歳の年に「権狐」という題名で書かれたものという。『赤い鳥』には次の年の昭和7年1月号に掲載されたが、草稿の「権狐」は三重吉によって加筆修正され「ごん狐」と改められたのです。修正したのは題名だけではなく、次のように登場人物や動植物の名前、また道具や家屋の名称にまで及んでいます。

  ▽茂助↓茂平▽いささぎ↓しだ▽とがや↓すすき▽はそれ↓なべ▽背戸↓うら、うらて▽納屋↓物置▽鰯のだらやすー↓いわしのやすうりだァい▽きの子↓まつたけ▽弥助の妻↓弥助の家内

  このように三重吉は地方的な語彙を都会の子どもたちにもわかるように一般的な用語に直したのです。ところが、用語だけではなく「権狐」の冒頭にあった昔話風な語りだし(プロローグ)も、「ごん狐」ではたった2行の語り出しに修正させてしまったのです。

  【南吉の書き出し】

  茂助というおじいさんが、私たちの小さかったとき、村にいました。「茂助じい」と、私たちはよんでいました。茂助じいは、年とっていて、仕事ができないから、子もりばかりしていました。〓若衆倉〓の前の日だまりで、私たちはよく、茂助じいと遊びました。
  私はもう、茂助じいの顔を、おぼえていません。ただ、茂助じいが、夏みかんの皮をむくときの、手の大きかったことだけ、おぼえています。茂助じいは若いとき、猟師だったそうです。
  私がつぎにお話するのは、私が小さかったとき、若衆倉の前で、茂助じいからきいた話なんです。
                                          「権狐」

  【三重吉の修正】

  これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんからきいたお話です。
                                        「ごん狐」

   ◇   ◇

  かつて『赤い鳥』創刊号に寄稿させた芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に対しても「子どもにも分かりやすい文章にしたい」と手を入れた文章家三重吉だから、「ごん狐」の方が「権狐」のプロローグよりたしかにすっきりした文章にはなっています。

  しかし「権狐」のモデルは南吉が生まれた地域(半田地方)の権現山に棲む「ごんげん狐」とみられ、また中山城址も「はりきり網」でウナギやキスを漁する江端兵重という兵十のモデルも存在していたのです。

  南吉にとって村の語り部「茂助じい」の民話風な語り出しは、「権狐」の活躍する世界とは不可分なプロローグだったと思えるのです。

  宮沢賢治にも「権狐」と似たプロローグをもつ「狼森と笊森、盗森」の作品があり、時空を越えた世界の物語なので、黒坂森の巨きな安山岩の語り部が噴火後の岩手山麓に松や柏の森ができる経過を語るというプロローグを賢治は設定したものとみられる。しかし三重吉ならば「小岩井農場の北に…」で始まっている冒頭2行だけのプロローグに改変するでしょう。


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