盛岡タイムス Web News 2011年 6月 19日 (日)

       

■ 〈東日本大震災〉慰霊祭で犠牲者を悼む 痛々しい姿残る大槌町で

 東日本大震災津波から100日目に当たる18日、大槌町では町主催の合同慰霊祭が開かれ、改めて犠牲者を悼む特別な一日となった。1600人以上が死亡または行方不明となっている同町。津波と火災で壊滅的被害を受けた町中心部や海岸線は痛々しい姿のまま、がれきや傷んだ漁具・漁船が山のように積み重なっている。「まだふっきれない」とうつむく人、「つらいのはみんな一緒」と前を向く人、それぞれ複雑な思いを胸にあすへ一歩を踏み出す。(馬場恵)

 地震発生時刻の午後2時46分、同町内では防災行政無線でサイレンが鳴り響き、町民が手を合わせて犠牲者を悼んだ。

  「まだ、ひょっこり帰ってくるような気がする」。同町新町の菅谷あやさん(53)は夫の義隆さん(62)がいない実感を持てないまま合同慰霊祭に参列した。元役場職員だった義隆さんは、あの日から行方が分からない。「数分前まで言葉を交わしていた。仕事を定年退職し、夫婦でゆっくりこれからという時だったのに…」。嫁ぎ先の千葉県から戻った義隆さんの実妹の嵯峨山幸恵さん(53)も「何か割り切れない。きょうも(犠牲者として)弟の名前は呼ばれないけれど」と複雑な思いで席に着いた。

  大槌中学校の校庭内特設テントで開かれた合同慰霊祭には遺族ら約2千人が参列。17日までに届け出のあった犠牲者567人の名前が読み上げられたあと、亡くなった加藤宏暉町長の長男の伸基さんが遺族を代表して名簿を祭壇に奉納した。

  町長職務代理者の東梅政昭副町長は「かけがえのない各層各年代の皆様が一瞬にして命を落とされたのは痛恨の極み。協働の理念を持って町の復旧・復興を目指してまい進しなければならない」と式辞。

  町内の小学生を代表し安渡小6年の佐々木晴也君、吉里吉里小6年の倉元万愛さんも追悼の言葉を述べ「諦めることなく、大きな希望を持って美しい大槌を復活させていきたい。新しいあしたへ向かって頑張ろう大槌」と呼び掛けた。

  ■一人で海を見詰める

  赤浜小で避難生活を送る阿部邦男さん(70)はぽつんと一人、海を見つめていた。震災の日、大工の阿部さんは、高台の工事現場にいて難を逃れた。しかし、築12年の自宅は津波とその後の火事で跡形もなくなった。手元に残ったのは愛用の電動アシスト付自転車だけ。毎日、浜に降りてきては、好きなたばこをふかすのが日課だ。

  「一人で気ままにやってきたからね。避難所は気を使う。生きてて良かったのか、悪かったのか」。いずれは埼玉県に住む息子のそばに身を寄せるつもりだが「将来が不安。何十年とここにいた。嫁ともうまくいくか。でも、いずれ行くしかないね」と思い巡らす。

  ■タオル帽子を手に

  「感謝でいっぱい。涙が出てきます」。上野チヱさん(76)は大槌高校の避難所で岩手ホスピスの会が配った手作りのタオル帽子をかぶり涙ぐんだ。年の離れた妹のように親しくしていためいの田名辺弘子さん(68)がいまだ見つからない。19日には、町主催のお別れ会に足を運び、気持ちに区切りを付けるつもりだ。泥をかぶったたんすの中から黒いスカートを見つけ、川で洗濯した。「あすは何とか礼服で行ける」。

  「こっちはみんな元気だから安心して。早くあがってきて、手がなくても、足がなくても、はってでも(先に逝った)お父さんのところへ行きなさい」と拝むつもり。帽子と一緒に配られた供花を大事そうに抱えた。

  ■野菜作りの夢

  原発事故で揺れる福島県南相馬市から大槌町に訪れていた人もいた。トラック運転手の佐藤正博さん(61)。仙台市から仮設住宅の建材を、方々の被災地に運んでいる。家族といったん新潟に避難したが仕事に戻った。

  南相馬警察署の屋上で福島原発が爆発するのを目撃した。「ドーンと音がして、みんなが一斉に振り向いた」。自宅は浜から2・5`も離れていたのに津波にやられた。持っていた畑も、津波と目に見えない放射能で使えない。原発のせいで、恩のある知人も、思い出の品々も「探しに行けなかった」と悔しがる。「でも、俺だけじゃない。こっちの被災地を見れば、自分のほうはまだまし。仕事をしていなかった2カ月間のほうがよっぽどつらかった」。今は毎日の暮らしで必死だが、いつか安全な土地で野菜作りをするのが夢だ。


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