盛岡タイムス Web News 2011年 6月 23日 (木)

       

■ 〈肴町の天才俳人〜春又春の日記〉33 古水一雄 第二十七冊

     
  通巻第二十七巻 皮手帖  
 
通巻第二十七巻 皮手帖
 
  日記「第二十七冊」は2月4日から4月9日までの65日間が鉛筆書きでつづられている。実は前回の日記「第二十六冊」が2月5日までの筆書きであったから、2日間は重なっているのであるが、それは次のような事情によるものであった。
 
  (六日)
    (前略)昼飯クフテ考エタ、日記ヲ
    筆ニセヨウカ、鉛筆ダト筆致ヲ味
    (ワ)フ事ハ出来ヌ、筆ダト随処ニ文
    ヲ推敲スル事ハ出来ヌ、筆致ガ大切
    デアルカ、文致が大切デアルカ、思
    思想ガマトマリ文躰ガ締マツタナラ
    筆ニセウ、ソレマデハ鉛筆ヲ削ラム、
    筆致ヲ味ハウハ別ニ句稿歌稿ニテ足   ラム、

 
  前回の筆記用具選択は、もっぱら店頭での実利的理由で鉛筆にしたのであったが、今回の選択には、思想や文体の混乱期には筆致よりも推敲が大事だからと理由付けている。そして、用紙も半紙の和とじから西洋紙の皮手帖に戻したのであった。
 
  ところで、この日記には春又春の転機ともいえる事柄が記されている。それは、彼の改号についての記述である。
  これまで本稿の趣旨から“俳号・春又春”を使ってきたのであるが、正確にいうと“幼名・佐藤庄太郎”と表すべきものであった。号も短歌でも俳句でも“紅東”をはじめいくつかの号で表すべきであったのだがこの俳人の生涯を通した人名として“佐藤春又春”の名を用いてきたのである。その俳号・春又春にはこれから述べるような経緯があったのである。
 
  (二月十二日)
    歌無し、句無し、
    夜、俳号ドレカドレカjyト思フ、紅東ヲ
    改メテ低趣味タツプリノモノニシヤ
    ウト思フタ、雲山ハドウカ、馬陵ハ
    ドウカ、馬上ト思ヒ付ヒタ、馬上ダ
    馬上ダト思フテ寝タ、
 
  (二月十三日) 
    馬上トイフ号ハイゝケレド馬ニ乗レ
    ヌかラ駄目ダト怯氣(きょうき)ガ
    ツイタ、ソレニ馬上ノ句、馬上君、
    馬上句集、ナンダカオカシイ、春又
    春ニシヤウト思ヒ付イタ、春又春、
    春又春句集、一風変ツテイル処ガ趣
    味ガアル、コレニシヤウト決メタ、
 
  “馬上の俳号は馬に乗れないから駄目だ”は、春又春にしては珍しく剽軽(ひょうけい)な物言いではあるが、幾つかの俳号を思い浮かべながら「春又春」にたどりついたのである。
  ところで、「春又春」という名前は何から発想したかが気になっていたのであるが、この原稿を書くにあたって日記を再読していて気づいたことがあった。
  2月8日の記述に“夜坐「俳人蕪村」読ム、ヨベノツゞキナリ”とある。與謝蕪村は江戸中期の画家・俳人である。春又春が蕪村に親しむようになったのは子規の影響によるものであるが、写生(写実)を重んじた子規は自己の文学のよりどころとして蕪村の俳句に注目し大きく取り上げたのであった。子規に傾倒していた春又春は、当然蕪村の存在も強く意識し、その作品や評伝などにも目を向けていたのである。「俳人蕪村」の著者は正岡子規である。この著書のなかには蕪村の代表作ともいえる「春風馬堤曲」も取り上げられていて、当然春又春は読んでいたのである。
 
  「春風馬堤曲」は、十八首の歌からなる詩文である。その前書きによると、蕪村が故郷の古い友人を訪ねようと淀川を渡り馬堤にさしかかったときに、藪入りで帰郷する娘と一緒になり、親しく話をするようになってその娘の心境を歌に詠んだものである。
  道々春草を摘み、顔なじみの茶屋の婆さんと言葉を交わし、猫や鶏の親子動きを見ながら故郷へと向かっていくのだが、夕暮れ時にさしかかって3年ぶりの故郷の家が目に入ったのである。
 
  (1〜16省略)
  17 矯首はしめて見る故園の家
    黄昏戸に倚(よ)る白髪の人
    弟を抱き我を待春又春
   ふと目を上げると見覚えのある懐か
  しい家が飛び込んできました。すると、
  黄昏のなかに白髪の母が戸口に寄りか
  かっているではありませんか。腕のな
  かに弟を抱いて、春また春と私の帰り
  を待ってくれていたのでしょう。
 
  18 君不見古人太祇か句
    藪入の寝るやひとりの親の側
   あなたは知っているでしょうか、太祇
  の句を(やぶいりの ねるや ひとりの
  おやのそば)
 
  お読みいただいたように17首目の最後に“春又春”とあるのだ。俳号の候補としていた“馬上”もあるいは「馬堤曲」からの連想だったかもしれない。
 
  俳号“春又春”はどのような呼び方をしたらいいのだろうか。春風馬堤曲の文脈でいえば「ハルマタハル」となるだろう。それで思い出したのは、平成22年2月23日から3カ月間開催された盛岡てがみ館の企画展「肴町の天才俳人・佐藤春又春とその時代」の折りに来館くださった佐藤節郎氏(春又春の義理の叔父・寅三郎のお孫さん)のお話では、「父はハルマタハルと呼んでいた」とおっしゃっていたことである。
  節郎氏の姉上の吉田陽子氏にも電話でお尋ねしたところ同様に記憶しておられた。
  訓読みの俳号は、蕉門の俳人鬼貫(おにつら)などのような訓読みの俳号もないわけではないが、一般的に(特に新派の俳人の)俳号は音読みが主で、訓読みの俳号はあまり見かけることがない。佐藤誠一郎氏(春又春の三弟・庄三郎のご子息)にうかがってもみたがよく分からないとのことで、「シュンユウシュン」でいいのではないかと答えられた。
  最後の手がかりを日記の記述2月14日の東風宛書簡の下書きに求めることにする。
 
   東風兄ニ書、改号春又春、
    和味ト漢語ヲ帯ブルヤウカネテヨリ
    苦心致シ候処今般漸ク前記春又春ト
    改メ候、一風変ツタ処合点被下度
    (くだされたく)候、云〃、
 
  「和味」は季節感たっぷりということ、「漢語」は音読みを生かしていると解釈できる。したがって、「春又春」は「シュンユウシュン」と読んで間違いないであろう。「ハルマタハル」は近親者が親しみを込めて呼び習わしていたものであろう。
 
    改名スルト、披露シテ見タクテタマ
    ラヌ、秋冬一百句、「俳星」ニ送ル、
    「日本及日本人」ニ、足袋五句、枯
    尾花七句、毛布九句、枯芦八句、〆
    二十九句送ル、
 
と、大張り切りであった。


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