盛岡タイムス Web News 2011年 6月 25日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉217 岡澤敏男 「タネリは」は教材に不適

 ■「タネリは」は教材に不適

  もう少し「権狐」の話を続けます。

  昭和7年1月の『赤い鳥』に掲載された新美南吉の「ごん狐」は、じつは「権狐」という題名で書かれていたものと分かった。昭和40年頃、「南吉の義理の弟の子供」によって南吉使用のノートが半田中学国語教諭だった間瀬泰男氏のもとに提供されました。それは原稿用紙形式のモダンノートで、革の表紙に銘柄が「Spurta」とあって「スパルタノート」と通称されている。

  このノートの昭和6年10月4日の日付で「権狐『赤い鳥』に投ず」の見出しで書きとめられた作品が「ごん狐」の草稿(原作)「権狐」だったのです。

  この二つの作品について一般には「権狐」を草稿とし三重吉が手を入れたとみられる「ごん狐」を定稿として読まれているが、府川源一郎氏は冒頭部について比較しながら「二つの作品を別のものとして読むべきだ」(『「ごんぎつね」をめぐる謎』)と指摘している。

  すなわち「ごん狐」はすっきりとした改稿であろうが、「権狐」に「存在した重要な要素が抜け落ちている」と見るのです。

  たしかに冒頭部のプロローグは、村落共同体が次代へと伝承を引く継ぐ場である「若衆蔵」において、茂助爺(長老)と私たち(幼少)との交流を示す重要な要素だと思われる。したがって「ごん狐」は死ぬことで語り納められるが、「権狐」は死後も「若衆蔵」という共同体の場に戻っていくから、「権狐」という話は「そうした循環を前提に語られている」という府川氏の見解には傾聴させられる。

  そして三重吉が文学教材としての立場からフォークロア的なプロローグを削り落とした理由もあぶり出されてきます。賢治が菊地武雄のあっせんで三重吉に読んでもらうために選んだ「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」の生原稿が採用されなかったのも文学教材として不適と判断されたからに違いありません。

  早春の青空に「小さなすきとほる渦巻きのやうなものが、ついついと、のぼったりおりたりしてゐる」し、ヒキガエルが「おれの頭のうへは、いつから、こんな、ぺらぺら赤い火になったらう。そこらはみんな、桃いろをした木耳(きくらげ)だ。」とつぶやく。そんなアニミズムを思わせる不気味な自然観や犬神の出現などに拒否反応を誘ったのでしょう。

  また遊んでくれない柏や栗の木にタネリは「雪のないとき、ねてゐると/西風ゴスケがゆさぶるぞ/ホースケ蜂(すがる)が巣を食ふぞ/トースケひばりがが糞ひるぞ」、「栗の木食って 栗の木死んで/かけすが食って 子どもが死んで/夜鷹が食って かけすが死んで/鷹は高くへ飛んでった」とからかうタネリの歌も児童に不向きと思ったのでしょう。さらにはフジ布の繊維を滑らかにするために噛んだフジヅルを全部吐きだして帰ったタネリに母は「おまへのきものは、一つも編んでやらない」と叱っておきなが、タネリが「一日噛んでゐたやうだった」と言い訳した途端に「さうか、そんならいい」と妥協する母の心情も理解されにくいかも知れません。

  これはフジ布の呪術を伏線としているもので、「フジヅル」を「いちにち噛む」ことにより、鴇による異界の森への誘惑を免れたことの暗示だったのです。

  「タネリは」が教材に向かないと三重吉に拒否されたことによって、賢治は『赤い鳥』と妥協することなく独自性を保持し、比類のない賢治童話の世界に到達したものと思われます。

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