盛岡タイムス Web News 2011年 6月 29日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉235 伊藤幸子 七月の山

 七月の真青(まさを)き空にぐいと出す焼け爛(ただ)れたる巌(いはほ)の拳(こぶし)
                                            来嶋靖生

  夏山シーズン到来。7月1日は各地で山開きが行われる。この歌、「平成十年七月、上高地より焼岳へ二度目の挑戦」と詞書にある。上高地は、長野県北アルプス南部の登山基地。焼岳(2455b)の噴火でせきとめられた大正池、田代池、明神池などが連なる景勝地でいわおなす西穂高岳、奥穂高岳、槍ヶ岳へとつながり、夏冬登山家たちをひきつけてやまない地帯だ。

  昨年短歌総合雑誌9月号に来嶋氏の「帝釈山に登る」と題した20首を読んだ。「夜の明けてなほ降りつづく山の雨ひときは堅く締むる靴紐」「この里に幾世生き継ぎ来し民を目守(まも)り来れるこの大檜(檜枝岐・ひのえまた)」「傘傾(かし)げ行く眼にやさし言葉には為難(しがた)き色に咲く姫小百合」これらの作品に私は日本大地図を広げ、若く福島県民だったころの地名に発熱するような思いを抱いた。「ひのえまた」川沿いの細い道や、うす桃色のヒメサユリ、帝釈山地は今もおぼろになつかしい。

  平成15年刊の歌集「暁」によれば、山頂で心筋梗塞の発作に襲われ、九死に一生を得る体験をされた由。「下らむとリュックを負へど眩暈(めくるめ)き歩まむとする足たぎたぎし」「『下山は無理よ。動かないで。こんなところで死なないで』と妻」との衝撃的な作品もある。

  「たまさかに七十年を経しいのち●(なほ)し生きよと大地近づく」氏は昭和6年大連市生まれ、昭和21年父の郷里福岡に帰る。著書多数、歌壇各賞多数受賞。氏の述べられる「高齢化の現状」に励まされる。一昨年の総合誌に「まず70代の作者が多いのは当然として、80代後半から90代の人の歌が珍しくなくなった。次に目立つことは、6、70代の初心者が多くなっていること。歌の巧拙以前に、作歌が生きる喜び、励みになっていると言ってよい」と書かれ、個々の作家を上げるまでもなく、歌つくるゆえに長生きもできるとの論は受け入れやすい。

  ところで、氏の実に楽しい音楽談話がある。「昭和45年、河出書房の『世界音楽全集』は初回『ベートーヴェン』が実に35万部のベストセラーになった。私は企画担当として地方を回り、もっぱら第二楽章を聴かせた。華やかな第一楽章より、絃のピチカートを伴ったフルートのソロはまさに魔法の働きをした。私にとってはこの第二楽章は、意気盛んなりし日の思い出の曲なのである」と、全文紹介できないのが残念だが、はねる音符が見える文体である。「頂に立たむと勢ひし日々ありき山は頂のみにはあらず」今、七月の山が眩しい。
(八幡平市、歌人)



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