盛岡タイムス Web News 2011年 9月 1日 (木)

       

■ 〈春又春の日記〉38 古水一雄 通巻三十二冊 初メテ原抱琴子ニ見ユ

 この表題のない日記帳には、明治40年7月2日から9月19日までがつづられている。ただし、8月30日までは新暦で日付が書かれ、翌日からは旧暦で書かれている。従って、日記の最終日は8月11日ではあるが、新暦では9月19日ということになる。
 
  さて、旧暦7月21日つまり新暦の9月1日には、原抱琴を迎えての杜陵吟社句会が報恩寺で開かれている。
     
  「通巻第三十一巻(無題)」  
 
「通巻第三十一巻(無題)」
 
 
   (旧暦七月二十一日)
   杜陵吟社大会ヲ報恩寺ニ開く、会者
   八名、初メテ原抱琴子ニ見ユ、水鶏
   (クイナ)十句、琴子不振空シク旧
   日ノ子ガ句ヲ誦スルノミ、紅童ノ傲
   談サツ語殆ンド其軽薄ニ堪エズ、鰻飯、
   茶、月秋ヲ労ス、ふらんねるニかす
   りノ単衣ヲ重ネ、ソレニ袷羽織、作
   句ノ涼ヲ得ザリキ、帰途炎天、汗胸
   ヲ洗フ、
      水鶏
    蜩に水鶏に日課日課かな
    水鶏鳴くや自炊ハ蕗に飽くる夜ぞ
    疑義あれハ故人を思ふくひなかな
    よべ水鶏鳴く頻り知る水落る事多少
    鳴きつゝか竹の中ゆく水鶏かな
 
    夜、雲軒酔フテ帰ル、余藤澤座ノ幻
    灯会ニ詰メル、十一時下駄ヲ間違ヒ
    ラレテ帰ル
 
  原抱琴とは、平民宰相の原敬のおいにあたる人物である。原敬の兄・恭(ゆたか)の長男で、本名を達(とおる)という。盛岡中学校に3年間在学した後、東京府日比谷中学校(のちの府中第一中学校)転学した。

  原敬と正岡子規とが親交があったことや新聞「日本」への投句により子規の知遇を得ることになった。明治32年の春、中学5年生のときである。

  以後頻繁に訪れて句会にも参加している。句会では常に高得点を得ていて子規門下の若手のホープであった。抱琴の遺句は総数1200余句といわれているが、新聞「日本」「ホトトギス」、「俳星」「紫苑」「鵜川」「車百合」「木菟」といった諸俳誌に発表されている。さらには明治新派俳壇を代表する句集「春夏秋冬」のなかにも十余句採録されるなど当時としては際だった才能を発揮していたのであった。

  学業においても府中第一中学校から第一高等学校に入学するが、間もなく健康を害して中退。2年間の療養ののちに東京外語学校フランス語科へ入学し3年の在籍後、東京帝国大学法科大学フランス語科に特待生として籍を置く希に見る秀才であった。

  しかしながら、一高時代に肺尖カタルを発病して以来健康状態がすぐれず、法科大学4回生の明治45年、肺結核・咽喉結核により30歳の短い生涯を終えている。

  明治40年は抱琴が法科大学2回生のときである。おそらく休暇を利用して帰盛した折りであったのだろう。春又春は抱琴と初めて同席するのである。しかしながらこの日の抱琴の俳句は春又春の琴線に響かなかった。

  “琴子不振空シク旧日ノ子ガ句ヲ誦スルノミ”と書き記しているが、これをどのように読み解けばいいのだろうか。

  “旧日の子が句”を春又春がすべて読んでいて頭に入れているということはありえない。確かに新聞「日本」俳誌「ホトトギス」「俳星」は昔から購読していたので、掲載されている抱琴の俳句は読んでいただろう。また句集「春夏秋冬」や俳誌「紫苑」も読んでいた。しかし、発行部数の多くない「鵜川」「車百合」「木菟」までは読んでいたかどうかは不明である。

  実は浦田敬三氏の編著による「明治の俳人 原抱琴」なる書籍が手元にあって、新聞や俳誌に掲載された抱琴の俳句611句を掲載しているのである。そのなかには水鶏の句は全くない。抱琴が水鶏の句を吟ずることがなかったとは言い切れないが、少なくとも春又春が目にした可能性はかなり低い。すなわち“子ガ旧作ヲ誦スルノミ”はあり得ないことである。
     
  原抱琴  
 
原抱琴
 

  では、句会のなかで抱琴が“これは旧作だが”と説明を加えたのだろうか。運座は即吟が基本であるからこれも考えられない。念のため盛岡で「祭」を主宰されている山口剛氏に伺ってみたが「それはありえない」と言下に否定された。

  そこで、筆者は次のように考えてみた。

  根岸の子規宅で直接指導を受け中央俳壇で華々しい活躍をした抱琴であるという期待感が春又春にはあっただろう。しかし、運座を共にしてみると意外にもどの句も精彩を欠いていて、かつて自分が目にし耳にしたことのあるような精気のない平凡な句でしかなかった。

  抱琴が最も盛んに句作に打ち込んだのは明治30年頃から明治39年までで、それ以降はほとんど句作をすることがなかった(おい・原奎一郎の証言)ということだったから、杜陵吟社の句会には、その昔自分が杜陵吟社の創立にかかわったという懐かしさから参加したものであろう。いみじくも春又春はそうした事情を見抜いていたのだ。

  同席した他の仲間が子規門下の俳人としての名声と東京帝国大学の秀才という令名へつらいおもねる姿を目にして、「軽薄」と切り捨てるのである。


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