盛岡タイムス Web News 2011年 9月 10日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉228 岡澤敏男 馬好きになった賢治

 ■馬好きになった賢治

  騎兵第3旅団の歓迎会は明治42年7月18日(日)に八幡宮社前で行われた。当日の旅団の出営は午前8時半。第23、第24連隊の騎馬隊は2列になって厨川片原↓木伏↓開運橋↓大沢河原小路↓下の橋↓馬場小路、鷹匠小路を横切り、上衆小路から六日町に左折↓呉服町↓肴町を横切り↓生姜町↓八幡町を通過して午前9時30分、八幡宮馬場に到着。

  同10時より歓迎会に臨み11時に終了。帰営コースは八幡町↓生姜町↓肴町↓中の橋↓内丸↓仁王小路↓材木町↓茅町↓夕顔瀬橋↓厨川片原↓騎兵第3旅団となっている。

  新聞報道によると隊列の長さは20町とあり、およそ2`にも及ぶ武装した騎馬隊列の壮観はいかほどだったことか。この日は日曜日で沿道は観覧する人垣でいっぱいだったという。中学1年生の賢治も内丸の中学校舎前に整列し、目の前を粛々と帰営する騎馬隊列を見送って寄宿舎の学友たちと盛んに手を振ったことと思われます。

  盛岡の騎兵第3旅団の編成表を見ると、騎兵1連隊(5中隊)の人員は668名、乗馬は672頭とあるから、2連隊ではその倍数になり、2列に並んだ騎馬隊列が20町(約2`)余と報道された記事は決して誇張ではありえない。

  100頭余のチャグチャグ馬コ行列の比ではない。このように大規模な騎兵師団を迎えた盛岡市民の熱狂的歓迎ぶりも理解できる気がする。歓迎会があった7月18日の夜、市内から旅団の兵営まで行進した提灯行列の模様を報道した岩手日報の記事を抜粋して掲げます。

  「(前略)定刻前より桜城小学校々庭に押し掛け来る群衆潮の如く七時半頃に至りてはさしもの広場も人、提灯、高張、行灯を以て覆はるゝに至れり。…やがて隊伍既に整ひ…広場の正面よりー繰り出したり、たゞ見る延々たる一大火蛇の徐々として大道にうねり出づれば、両側には此の盛況を見むとて集り来る老若男女人垣を造りて行けども行けども尽くるを知らざる有様なりしが(以下略)」とある。

  一行が大矢馬太郎市長の先導で行進し茅町から下台に入り本多旅団長邸宅前で市長発声で万歳を唱え、北上川沿いに下り夕顔瀬橋に出て幾百千の灯火が片原道路から兵営道路へと北進し騎兵隊の営門前に至ると、折から20発の花火が中天に輝きおもむろに営門が開いて右側に23連隊将卒、左側に24連隊将卒が整列して一行を迎えた。

  大矢市長の発声とともに万歳歓呼を交換して帰路につき一行が解散したのは夜10時だったと、記事は結ぶ。

  こうした旅団歓迎熱も薄らいだ1カ月後、10月6日より1週間の秋季演習が和賀郡「後藤野」で実施されることになったのです。演習地を目指して5日朝5時営舎を出発した2千頭余の騎馬の列が国道を南下し午後2時半に花巻警察前に到着し30分間休憩したらしい。国道沿いに20余町も並ぶ長い騎馬の列に歓迎・参観に集まった花巻町や近郊の群衆はさぞや驚ろいたことでしょう。旅団司令部と第23連隊の本部は大田村、第24連隊の本部は笹間村に置き付近の民家を宿舎にあてたという。6日午前5時より開始された演習の模様は岩手毎日新聞の従軍記者(望月生)が「軍馬の嘶(いなな)ぎ」と題する連載記事で報道している。後藤野といえば生家の近郊であり、「岩手毎日」の報道記事に関心を寄せ二千の騎馬たちの壮絶な演習をイメージし、賢治は馬好きになっていったのでしょう。

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