盛岡タイムス Web News 2011年 9月 11日 (日)

       

■ 〈震災から半年〉ここは長洞元気村 自分たちの力で新たな地域を

     
  笑顔が集まる土曜市。支援物資や各戸に届いた野菜や海産物を販売  
  笑顔が集まる土曜市。支援物資や各戸に届いた野菜や海産物を販売  
  東日本大震災津波から半年。沿岸被災地では道路のかさ上げや高台への住宅移転など新しいまちの青写真がようやく描かれ始めた。しかし、膨大な事業費の裏付けはなく、住民合意を得て具体化するまでには長い時間がかかる。そんな中、地域の絆を守り、将来のまちづくりへ自力で動き出した集落がある。陸前高田市広田町長洞地区の「長洞元気村」を訪ねた。 (馬場恵)

  「カニだよ、カニ。1個100円」「この鍋焼き(がんずき)も食べてみて」…。8月21日。26戸の仮設住宅が並ぶ長洞元気村の入り口では恒例の「笑顔が集まる土曜市」が開かれていた。支援物資の日用品の余りや各戸に届いた野菜や海産物の「お裾分け」を路地に並べ、1個100円で販売。売り上げは集会所の運営費など共益費に充てる。心地よい浜風がそよぐ夕暮れ。丸太を加工した手作りベンチには、ビールを手にしたお年寄りも腰を下ろし、世間話に花を咲かせた。

  ■民有地確保して仮設住宅

  この村は、住民が先頭に立って民有地を確保し完成させた集落専用の仮設住宅団地だ。津波で家を流された長洞地区の21世帯、98人がまとまって生活している。一番つらいときを、共に乗り切った集落をばらばらにするわけにはいかないと自治会副会長の村上誠二さん(55)が地元地権者4人と交渉。土地を5年間無償で借りた。
     
  長洞元気村の入り口に掲げられた「感謝と復興の誓い」。木製ベンチは住民の憩いの場だ。村長の戸羽貢さん(中央)、事務局の村上誠二さん  
  長洞元気村の入り口に掲げられた「感謝と復興の誓い」。木製ベンチは住民の憩いの場だ。村長の戸羽貢さん(中央)、事務局の村上誠二さん  

  民有地に仮設?前例がないと渋っていた行政もメディアで村上さんらの取り組みが大きく紹介されると考えを変えた。コミュニティーを守る意欲の高い住民たちを意気に感じた「仮設市街地研究会」(代表・濱田甚三郎首都圏総合計画研究所代表)も全面支援。7月17日、開村式にこぎつけた。その後、住民の意向に添い、柔軟な方法で仮設住宅の整備を進める流れが、ほかの被災地にも広がった。

  ■表札に屋号

  「大長根」「鼓祝新屋」「坂口別家」「恵比寿屋」…。仮設住宅の入り口に打ち付けた表札は代々伝わる「屋号」だ。「同じ名字がたくさんいるんだから、こうしないと誰の家だか分がんないべ」。各戸の並び順も津波前と一緒だ。日中、見知った年寄りたちの目があるから、若い人も安心して勤めに出られる。「ほとんど鍵かけたことないな」。長洞元気村長の戸羽貢さん(60)は笑う。仮設住宅団地では、被災者の孤独死を防ごうと、さまざまな支援活動が展開されているが、ここでは地域の絆がその役割を担う。

  ■地域のつながりが財産

  3月11日。リアス式海岸で、太平洋にひょろ長く突き出た広田半島は、広田湾・大野湾の両岸からの津波で分断。陸の孤島と化した。半島のつけ根に近い長洞地区は60世帯のうち海岸そばの28棟が被害を受けた。

  「地震がくれば津波」。長年、三陸沿岸で生活してきた住民は頭にたたき込んでいる。海岸に山が迫った地形で、短時間に高台へ避難できたこと、声を掛け合って逃げる習慣があったことで、地区の犠牲者は高田町に勤務していた一人にとどまった。

  被災者は被害を免れた民家に分宿。それぞれの家にどれだけ米が残っているか調べ、分けあって食べた。低地はがれきと海水に覆われ、なかなか水が引かない。元の道に板をわたした細い仮設道路が半島の「命の道」になった。

  3月23日からは、地元出身の先生に協力を仰ぎ、地域の子どもたちが学ぶ「長洞元気学校」を自主開設した。高校生や大学生のボランティアも協力。学校が再開されるまでの25日間、寺子屋のように子どもたちが学び合った。地域のつながりこそが「長洞の財産」。誰もが確信した。
     
  集落の高台移転について話し合った長洞集落復興懇談会  
  集落の高台移転について話し合った長洞集落復興懇談会  

  「行政の旗振りを待っているだけでは駄目だ。自分たちでできることは自分たちでやって1歩でも、半歩でも前に進もう」。元気村では集落ごと高台に移転する方法を探り始めている。

  8月30日、元気村の集会所で開かれた第1回長洞集落復興懇談会には住民や仮設市街地研究会の専門家ら約20人が参加。地区周辺の立体模型を見ながら、高台移転の可能性について話し合った。

  北海道南西沖地震(93年7月)で津波に遭った北海道奥尻島青苗地区や、新潟県中越地震(04年10月)のあと、高台の学校跡地に集団移転した旧山古志村の集落の事例も学習。「宅地はどれぐらいの値段だったんだべ」「集落が孤立しないよう背骨になる道路が必要だ」。疑問や意見をぶつけ合い、津波被害で高台移転が行われた奥尻島へ視察に行くことを決めた。

  同研究会の濱田代表は、中越地震のあと、被災した旧山古志村の集落移転を実際に支援した経験がある。長洞地区について「何を決めるにしても、よく意見を言い合う。文句も出るが、最後は落ち着くところに落ち着く」と住民の前向きな姿勢を評価。「集落移転で最も難しいのは地域の合意形成。住みよいまちを作っていくためには要所、要所で自分たちの気持ちを確認しながら、将来を見据えて進んでいくことが大事だ」と助言する。

  集落の中心メンバーは、濱田さんらと知恵を絞り、移転のための用地を造成できる高台候補地を選定した。浸水区域は漁業のための共同作業場などとして再生していくプランを描いている。

  プランを具体化していくためには今後、移転候補地を所有する地権者との交渉、導入できる国の補助事業の検討、市の復興計画に盛り込んでもらうための話し合いなど、一つひとつハードルを超えていかなければならない。

  元気村に住む全戸の住民と面接し経済状況やライフプランについて聞き取り調査した村上さんは「本当にできるのか、みんな半信半疑。でも『仮設住宅だってできたしなあ』という人もいる。一つ達成できたことが自信になっている」と語る。

  「仮設に移って、ぐっとみんなの距離感が縮まった。家族が増えた感じ。長洞のような小さな集落が突出すれば、たたかれることもある。けれど、住民側から声を挙げ、正当性を広めていくことで行政も動き始める」と前を向く。

 元気村で暮らす砂田満さん(69)は専業漁師だ。息子の光也さんと再び舟を出す日を待つ。「俺は陸のほうに行ったって駄目なんだ。ここじゃないと」。浜ではがれきの撤去作業が続き、今は漁が禁止されている。それでも、来春の収穫に向けて養殖ワカメの種だけは付けたという。

  長洞地区は、専業でなくとも、ほとんどの家が漁業権を持っている。季節になればアワビやウニを採り、親戚や知人友人に分ける。海はなりわいであり、人と人とをつなぐ潤滑油でもあった。だからこそ、海の見える場所に、もう一度、絆を保ったまま集落を再建したいという願いは強い。

  開村式の日、元気村村民を代表して「感謝と復興の誓い」を掲げた戸羽さんは言う。「今さら海のない生活なんて考えられない。俺たちが頑張って足跡を残し、100年、200年先の子どもたちが安心して暮らせる基礎を作ってやりたい。地域を守る。その思い一つだ」。


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