盛岡タイムス Web News 2011年 9月 24日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉230 岡澤敏男 騎兵隊演習のパロディ

 ■騎兵隊演習のパロディー

  賢治が盛岡の騎兵連隊(第三旅団)の演習に関心を寄せていたことは「林学生」(「春と修羅 第2集)」の〈何か巨きなかけがねをかふ音がした/それは騎兵の演習だらう〉からも、童話「土神ときつね」の〈ずうっとずうっと遠くで騎兵の演習らしい〉からも垣間見られるが、とりわけ演習による負の側面をとりあげ大胆に表現したのは小岩井農場を素材にした「遠足統率」(「春と修羅 第2集)」の次の詩章です。
 
いつか騎兵の斥候が
秣畑あるいたので
誰かがちょっととがめたら
そのつぎの日は一旅団
もうのしのしとやってきて
大演習をしたさうです
 
  いかに盛岡に創設された騎兵第3旅団とはいえど、第23、第24連隊2千余騎の大演習を了解もなく民間の小岩井農場内で実行するはずはなく、演習のスケジュールや該当する演習地については事前に緻密な計画書を提出して農場長の許可を得ていたと思われる。

  その演習の前日に騎兵の斥候が、本部(管理部)の許可のもとに演習地の牧草地を下見しに訪れたのが実態なのでしょう。許可を知らなかった草地場員に「ちょっととがめたら」以下は賢治流のパロディーと思われます。

  たしかに演習地になれば、雑草を駆除し大事に管理してきた草地なので2千余の騎兵集団に蹂躙(じゅうりん)されてはたまりません。草地場員が苦情を本部に訴えるのは当然だろうし、農場とて陸軍の圧力に渋々と農地内演習を黙認せざるを得なかったのが実情だったのでしょう。賢治はそれを察しているから、軍部が民間に対し往々にしてふるまう横暴さを、このようにパロディー化して批判した詩章だったのです。

  盛岡の騎兵第3旅団の主たる演習地は短篇「柳沢」や童話「土神ときつね」の背景にみられる一本木原演習場でしたが、特別の大演習を予想して小岩井農場まで演習地の範囲を拡大することがあったのかも知れません。

  「遠足統率」は大正14年5月の作品ですが、その3年後に演習中の騎兵集団が迂回して小岩井農場内を通過したことがある。それは昭和3年10月に大元帥(天皇陛下)をお迎えした特別大演習が岩手平野を中心に実施された時のこと。この特別大演習の大本営が県公会堂2階中央に設営されたことを公会堂のフロントに掲示されている。

  演習を構成する南北両軍は山形ー秋田間での交戦をもって火蓋を切り、戦線は次第に集約されて、やがて両軍が観武ケ原の南と北に対峙する情勢になった。北軍に所属する騎兵集団(騎兵第2、第3旅団、騎兵第8連隊、騎兵教導隊、装甲自動車隊、無線隊)は飛行機による監視を避け奥羽山系東麓の疎林地帯を利用しながら南進し、風雨をついて岩手山麓から観武ケ原をめざし小岩井農場方面に迂回したという。

  それは10月7日夜の事で、騎兵隊が豪雨の中を農場内に休憩をとったとき、社宅の婦女たちが一生懸命に暖かい飲み物を将兵等に提供した故事を元場員だった古老から聞いたことがある。

  なお、詩篇「小岩井農場」(パート3)の最終行に「いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つたのは/(騎手はわらひ)赤銅の人馬の徽章だ」にも、騎兵のイメージをダブらせているように見えるのです。

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