盛岡タイムス Web News 2011年 12月 10日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉240 岡澤敏男 「対酌」(未定稿の文語詩)

 ■「対酌」(未定稿の文語詩)
  朝から雪がパラついている。すっかり冬だなあと思う。ふと、冬だから雪が降るのか、雪が降るから冬なのか、と考えてしまう。ついでに酒を飲むから酔うのか、酔うために酒を飲むのかというアナロジーが浮んでくる。すると賢治は酒に弱かったか、強かったかとの命題にたどりついてしまった。

  その命題には『啄木と賢治の酒』(藤原隆男・松田十刻共著)第三部「賢治の酒観」がよい手引きとなりそうにみえる。賢治の飲酒については「藤根禁酒会に贈る」(1927・9・16)の詩にみられる禁酒思想が酒の弊害に基づく大正15年(昭和元年)以降の「酒観」によるもので、これをもって賢治は「酒が飲めなかった、或いは嫌いだった」と飲酒を否定するのはどうでしょう。

  『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著)の「座談会・賢治素描」や「ある対話」に花巻農学校時代の同僚(藤原嘉藤治、堀籠文之進、白藤慈秀等)が証言するのは、その当時の賢治はお酒を「飲めるくち」であった素顔を伝えています。

  例えば「自分から進んで、酒を飲むことなどはなかったが、つき合いでは飲みました。水でも飲むように、グッグッと飲んで、ほされた盃をすぐ返した」(藤原)、「花巻の粋月という料亭ではじめて宮沢さんと飲んだ。ヤアヤアと盃を出すのですが、飲むとすぐ返します。酔うとほんのり桜いろになります。芸者とも話します」(白藤)、「県視学などの歓迎会のときなど、お酒は飲みましたが、盃をさされると、たしかにすぐ返盃しました。顔も赤く、にぎやかな顔いろになりましたが、酒には弱い方ではなかった」(堀籠)などと語っているのです。

  盛岡高農時代にはこんなこともあったらしい。大正5年(2学年になったばかりの3月19日〜31日)の修学旅行でのできごと。西ヶ原試験場、駒場農科大学をはじめ関西方面の見学を終え28日から自由行動となり賢治ら8名(実際は12人)は、29日に鳥羽から三島に渡って、それから箱根を踏破することになった。

  「箱根街道に入る少し手前に来た時、一杯飯屋の縄暖簾をくぐってサッサと中に入ってモッキリ酒を注文したのが宮沢君であった。他の連中はアッと驚いたもののグッと一杯やって店を出た」と同行した大谷良之がこんなエピソードを『宮沢賢治とその周辺』で語っている。

  いずれにしても若き日の賢治は酒量は別として、それほど酒には弱くもなく、ほどほどに「いけるくち」だったことは理解されるのです。

  大正7年の3月、賢治は優秀な成績で高農を卒業したが親友の保阪嘉内は2年を修了し3年生に昇級するとき、思想問題(と思われる)で学校を除名される事件が起こった。嘉内は学校当局へ訴えたが当局は何らの説明もなく切り捨ててしまったのです。

  学校を追われて失意に暮れる嘉内を賢治は花巻の大沢温泉に誘ったらしい。賢治年譜には収録されていないが「そこで、志半ばで学校を追われれ失意に暮れる友と盃を交わした。賢治の晩年の作である文語詩〈対酌〉は、このときの情景をうたったものである」と山梨ふるさと文庫が2007年9月28日に発行した『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』(大明敦編著、保阪善三・保阪康夫監修)に述べているのです。

  「対酌」とは差し向いで酒を酌み交わすこと。「そのひとり」とは嘉内を指し、「酒ふくみひとりも泣きぬ」とは自身のことで、飲酒する賢治を描く唯一の作品ではないかと思われます。

  ■文語詩「対酌」(文語詩未定稿)
 
嘆きあひ  酌みかふひまに
灯はとぼり 雑木は昏れて
滝やまに  稜立つ巌や
雪あめの  ひたに降りきぬ
 
「ただかしこ 淀むそらのみ
かくてわが  ふるさとにこそ」
そのひとり  かこちて哭けば
狸とも    眼はよぼみぬ
 
「すだけるは 孔雀ならずや
ああなんぞ  南の鳥を
ここにして  悲しましむる」
酒ふくみひとりも泣きぬ
 
いくたびか  鷹はすだきて
手拭は    滴をおとし
玻璃のとの  山なみをたゞ
三月の    みぞれは翔けぬ

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