盛岡タイムス Web News 2011年 12月 14日 (水)

       

■  〈大震災私記〉70 田村剛一 解体される家々

 自衛隊の派遣が早かったこともあり、山田のがれき撤去は、他の市町村に比べ、順調に進んだようだ。

  道路のがれき撤去、焼け跡のトタンの撤去が一段落すると、木造家屋の残骸が解体、撤去されることになった。その作業は、民間と自衛隊のタッグで進められた。自衛隊の指揮の下、建物解体が進められる。これは、解体工事と遺体捜索が同時に進められていたからだ。

  建物やがれきの下をくまなく捜索しながら行方不明の遺体を見つけていく。まだ、200人を超す行方不明者が見つかっていなかったからだ。

  私の家から10bほど下の所に、海岸近くから流れついた家があった。水産加工業を営む知人の家。私の母と今は亡き女主人が従姉妹に当たる。そんな関係で、その側を通るたびに、家の様子を眺めていた。毎年お盆の時は、仏参りをしていたからだ。見覚えのない部屋。それもそのはず、流れついた建物は、2階部分だった。

  いよいよ解体が始まる。家が壊れるのを見るのは気持ちよいものではない。それで、私は、その家の解体は見ないで、家の片付けに精を出すことにした。

  夕方近くになって、重機の音がやんだ。家の解体が終わったかなと思い外に出てみた。

  家はなくなり、家のあった場所に、自衛隊員が群がっている。足下に青いシート。

  “何かあったの?”自衛隊の様子を眺めていた人が数人いたので、声をかけた。

  “仏さんが見つかったようです”

  誰かなと思い、自衛隊員のいる所に近づいて行って“どなたですか”と声をかけた。

  “すがわらさんという人のようです”

  この近くで、“すがわら”という名字の人はいない。“町外の人のようですよ”私が自主防災会の会長であることを知っているようで親切に教えてくれた。

  知らない人だが、見つかってよかったなと思った。顔を見たいと思ったが“見ない方がいいですよ”と断られた。

  私の事務所が解体されたのは、その翌々日。バリバリバリと音を立てて壊れていく様を見るのはつらい。でも、30年前に、私が初めて手に入れた建物。そして、30年間、大事に使ってきた財産だ。それを見届けるのは、やはり私のつとめ。最後の重機がふり落とされる瞬間、私は心の中で手を合わせた。

  私も息子も、一時、危ない場面があった。その身代わりに、この事務所がなってくれたようにも思えたからだ。
(山田町)


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