盛岡タイムス Web News 2011年 12月 14日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉259 伊藤幸子 「忠臣蔵」

 風さそふ花よりもなほわれはまた春の名残を如何にとかせん
                        浅野内匠頭長矩
 
  平成24年は赤穂浪士討入りから310年になる。「頃は元禄十五年師走の十四日、折から降りしきる大雪の中、目指すは本所松坂町の吉良屋敷。統領大石内蔵助良雄が打ち鳴らすは一打ち二打ち三流れ、これぞ正しく山鹿流の陣太鼓。四十七士の面々が表と裏の門をば打ち破り、吉良の屋敷へ乱入したり…」

  師走の芝居は「忠臣蔵」赤穂浪士討入りの場面である。徳川家康が幕府を開いてから百年、その元禄14年3月、江戸城松の廊下で浅野内匠頭長矩(ながのり)が吉良上野介義央(よしなか)に刃傷(にんじょう)に及んだ。浅野は即日切腹、浅野家断絶赤穂の領地は没収。相手の吉良側はお咎めなしの裁決に喧嘩両成敗の法度に背くと庶民の反感を呼ぶ。

  この刃傷の原因については諸説入り乱れ、今もって「分からない」と結論づけられる。浅野内匠頭の遺書の不自然さ「かねて知らせ申すべく候へども今日やむ事を得ず候故、知らせ申さず候、不審に存ずべく候」の文言だけ。さぞ不審に思っているだろう、とのみ書かれた書状を届けられた国許(もと)の家臣たちの思いやいかばかりであったろうか。

  さて討入りは「寅の上刻」つまり15日の午前4時ごろとされている。また夜明け前の奇襲作戦であれば陣太鼓など打たない。「卍巴(まんじともえ)と降る大雪」といわれるが、大雪は前日の13日だった。従って残月の明るさに提灯もいらないほどだった。また吉良屋敷のある松坂町も、そのころにはなく、元禄事件以降の町名の由。本当は「目指すは北本所十二の橋通の吉良屋敷」これでは語呂悪く、芝居のふんいきが出ない。

  そして12月15日、吉良上野介の首級(くび)をあげ本懐をとげた大石内蔵助ら一行は泉岳寺で、内匠頭の墓前に報告。大石は「あら楽し思ひははるる身はすつる浮世の月にかかる雲なし」と心境を詠んだ。その翌年2月4日、細川家下屋敷にて切腹、行年四十五。因みに主君浅野内匠頭は35歳、吉良上野介は61歳であった。

  さて「忠臣蔵」人気にふれて、小林秀雄の言として「文士劇で忠臣蔵をやった時、正宗白鳥さんが『こんな連中のやるのをともかく見ていられるのは不思議だな。忠臣蔵は不思議な芝居だな』と言った」と、秋山駿さんが書かれている。

  本や歌舞伎、映画テレビでもおなじみの「忠臣蔵」。盛岡文士劇でもぜひ見てみたい。すご腕脚本家による名優達の名場面が、きっと大向うをうならせるにちがいないと信じている。
(八幡平市、歌人)


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