盛岡タイムス Web News 2011年 12月 19日 (月)

       

■ 〈大震災私記〉74 田村剛一 悲しき夫婦愛

 自宅に戻ると、いろいろな情報が耳に入り、今まで見えなかったものが見えるようになった。

  私の近くで20人を越す犠牲者が出たが、その中に5組の夫婦が含まれている。80代の夫婦3組、70代と50代の夫婦が各1組、逃げ遅れたのは80代の夫婦1組だけで、他は家の中で被災したようだ。逃げ遅れた夫婦は手をつないで助けを求めたようだが、助けるすべはなく、そのまま波にのまれたという。

  50代と70代の夫婦、どちらの夫も、体の不自由な身であった。50代の夫婦の家は避難場所になっている水天宮のすぐ下、登り口の階段までの距離は10bぐらいしかない。ただ、その階段は急で、体の不自由な人には自力では無理であった。

  避難途中、その家に立ち寄り声をかけたが返事がない。入り口のドアにはカギがかかっていたのを見て、車で避難したのかもしれない。そう思い、そのまま水天宮に避難した人がいる。

  その同じ道を私も、それより遅れて通っている。私が最後だと思っていたし、まさか家の中に人がいるとは予想もできず、そのまま無我夢中で急坂を登った。

  翌日、夫婦の遺体が家の中で発見された。体が不自由でなければ助かったのに、夫の方は、私の遠縁に当たる。妻の方は、行方不明になっている叔母のめい。どちらもよく知る仲だけに何とも痛ましい。

  70代の夫婦は夫が私の同級生、私たちの学年は戦争末期の昭和20年4月に国民学校に入学した組である。成人してから、お互いに助け合っていこうということで、“壱互会”という同期会をつくった。その会長が亡くなった友人であり、幹事長が私。このコンビで会を運営してきた。その友人が5年ほど前に脳梗塞で倒れ、入院、リハビリ生活を経て家に戻っていた。

  “お前たちは逃げろ…”息子夫婦は、親の言葉に従って避難し無事。友人夫婦は2階に避難したようだが、2人の家は全く跡形もなくなった。2人は今も見つかっていない。

  この夫婦、母親が始めた山田せんべいの製造元。この山田せんべいもどうなるのか。はたして、息子夫婦が継げるのかどうか。

  2組の夫婦を見て思った。妻は避難しようと思えば避難できた。しかし、夫を見殺しにはできず、運命を共にすることを選択したのだ。まさしく、悲しき夫婦愛。

  だが、そこには「夫婦愛」だけでは済まされないものがあるような気がする。身障者の避難、今後の防災の課題になりそうな気がする。
(山田町)


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