盛岡タイムス Web News 2011年 12月 23日 (木)

       

■ 〈大震災私記〉77 田村剛一 悲劇を生んだ防潮堤過信

 自宅に戻ったといっても、満足な生活ができたわけではない。部屋は8畳間の居間に、古い畳を6枚敷いているだけ。わずかの段差であるが、足を踏みはずして、軽い捻挫を起こしたことが何度かある。仏様には悪いが、仏間は泥水をかぶったままの床板がむき出しになっている。そこが荷置き場兼用。

  それでもわが家。いくらか、気持ちに余裕が出てきた。こうなれば、家の整理はゆっくりすればよい。

  後片けの合い間を見て、近くの状況を見て歩くことにした。まず、3月11日「津波だ」と叫ぶのを聞いた防潮堤付近から。実際、自分が避難した水天宮下の避難場所まで、何分かかるか計ってみた。

  ゆっくり歩いて、避難階段の所まで1分30秒、そこから急階段になるが1分。ゆっくり歩いても、2分30秒で避難できる距離である。この避難路に面した家で6人もの犠牲者が出ている。避難途中、私は1人も見ていないところを見ると、みんな家の中にいたのだろう。

  階段は急坂なので、身障者にはきつい。でも、家から顔を出していれば、近くの人が手助けしてくれたはず。通常は、ゆっくりさえ登れば高齢者でも登れた。途中まで登りさえすれば助かるところ。

  この道は、夜間でも避難できるようにと、町に頼んで避難灯をつけてもらったばかりだった。でも、それは役に立たなかった。

  防潮堤のすぐ近くで、一家3人が亡くなった家は、昭和8年の三陸津波、35年のチリ地震津波の被害を2度も受けている旧家の人たち。そんな人たちが、なぜ避難しなかったのか、全く信じられないことだ。

  隣の地区の避難所は、昔、役場のあった御倉山、このすぐ近くでも、10人近い人が亡くなっている。その中に3組の夫婦がいる。体の不自由な友人を除いて、他の人たちは、高齢であっても避難のできない状態ではなかった。この人たちもなぜ避難しなかったのか。

  この人たちの中に、郷土史家が2人いる。津波にも造詣の深かった人。ただ、お上の言うことをいたずらに信じる人たちであったから「津波の高さ3b」を信じ切ってしまった可能性がある。

  それ以上に、防潮堤に対する過信があったかもしれない。「海が見えていれば、助かった人がいたかもしれない」そういう人も少ないが聞いている。防潮堤近くで、避難しないで犠牲になった人の多いのを見たり聞いたりしていると、今回の大津波、防潮堤過信が生んだ悲劇のようにも思えてくる。

(山田町)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします