盛岡タイムス Web News 2012年 2月 7日 (火)

       

■ 〈大震災私記〉111 田村剛一 友人の証言7

 玄関で声がしたので出てみた。女性が一人立っていた。私の姿を見ると「先生、生きていてくれてよかった」。そう言って目頭を押えた。

  「生きていてよかった」という言葉は何度も聞いている。だが、「生きていてくれてよかった」という言葉は初めて。大槌高校時代の教え子。隣の鵜住居から通っていた生徒である。結婚して今、八戸に住んでいる。

  「父が避難所にいるので、お見舞いの途中です」という。その父、85歳に近いという。

  その時は、鵜住居に行く途中ということで、私の顔を見るなり、「また、まいります。先生、元気でいてください」。そう言ってすぐに鵜住居の父の所に向かった。

  この教え子も忘れたことのない生徒。毎年、年賀状をもらっていたが、年賀状をもらうたびに、いつも心でわびていた…。

  大槌で3年間担当したクラスの生徒。卒業式が終わって最後のホームルーム。私はそこで、こんなことを言った。

  「一人一人へのあいさつは結婚式の時に話す…」。そう言って別れた。

  卒業後4、5年経つと、続々と結婚式への招待状が届いた。ある月などは毎週、教え子たちの結婚式があって妻を嘆かせた。「生活費が足りない」というのだ。安月給の身で月5回お祝いを出すと、大変な額になる。それに、結婚式場が大槌や釜石とは限らなかった。東京でよくあったからだ。

  招待状が届いたものには全て出席しようと思っていた。「最後のあいさつは結婚式の時にやる」と約束していたからだ。

  でも、この教え子の時には、招待状をもらっていながら結婚式に出られなかった。理由は、その日結婚式が2つ重なり、別の教え子から先に招待状が届き、それに出席することになっていたからだ。そのことを忘れたことがない。

  前に家へ顔を出して間もなくして、再びその教え子が八戸の酒と菓子を持参でやってきた。家は完全に片付いたわけではなかったが、こんな機会でないと話もできない。それで家にあがってもらった。父親のことも聞きたかったからだ。

  「父は家と共に流されましたが、『元海軍兵士が津波ごときに負けてたまるか』その一念で必死に頑張り、がれきにすがり助かったそうです」。

  そういう人もいたのだ。誇り高き海軍魂というべきか。母は亡くなっているので、父親一人仮設住宅に入る予定だという。

  山田湾にはかつて掃海艇の基地があり、そこで戦死した人たちがいる。関谷橋のたもとに鎮魂碑が建っている。教え子が帰った後、その鎮魂碑を訪ねた。山田湾に散った人たちは、どんな思いで今回の津波を眺めたのだろうか。
(山田町)



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