盛岡タイムス Web News 2012年 2月 11日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉249 岡澤敏男 甚次郎の禁酒運動

 ■甚次郎の禁酒運動

  松田甚次郎が賢治を最初に訪ねたのは昭和2年3月のことだった。そして「最後の訪問は昭和2年8月だった」(「宮沢先生と私」)と草野心平編『宮沢賢治研究』Tのなかで述べている。

  しかし、この5カ月間に「度々お訪ねする機を得た」とも述べていることから、この他にも何度か訪れて面談していたらしいし、「昭和6年に、春と修羅をお手紙と共に送っていただいたのが最後の御手紙で」と書き留めていることから相互にしばしば文通のあったことが推察されるし、それも昭和6年まで続いていたと察知されるのです。

  おそらく「小作農たれ、農村劇をやれ」と賢治に激励されて山形県鳥越の郷里に帰った甚次郎が、6反歩の小作農としてスタートしたことを初信とし、4月25日に村の青年たちと「鳥越倶楽部」を結成し「郷土文化の確立、農村芸術の振興」を図ったことを告げて指導を仰いだのではなかろうか。

  残念ながら賢治と甚次郎の書簡は一通も残されていないので、あくまでも推理の範疇だが、賢治の返信には最近作の詩も添えられてあったと想像される。〔サキノハカといふ黒い花といっしょに〕(昭和2年5月)〔わたくしが ちゃうどあなたのいまの椅子に居て〕(同年7月1日)〔あすこの田はねえ〕(同年7月10日)〔南からまた西南から〕(同年7月14日)〔ぢしばりの蔓〕(同年8月20日)のいずれの詩篇も甚次郎に語りかけているような気がするのです。

  そして昭和2年9月16日付の「藤根禁酒会へ贈る」という詩は、特に甚次郎の「鳥越倶楽部」に向け書かれたものではないかと推理されます。

  この詩は賢治が杉山式によって作付けされた稲作の秋の出来をみとどけるために藤根村から岩崎村に向ったとき、平和街道(現・国道107号線)の道筋のあちこちに「藤根禁酒会」のビラが貼られてあるのに賢治が注意をひいたのです。
 
  諸君よもう新しい時代は
  酒を呑まなければ人中で
  ものを言えないやうな
  そんな卑怯な人間などは
  もう一ぴきも用はない
  酒を呑まなければ相談が
  まとまらないやうな
  そんな愚劣な相談なら
  もうはじめからしないが
  いゝ
 
  甚次郎の村でも飲酒抜きで行事の運営が図れないという旧来の悪習があり、青年たちもその悪習に染まっていて倶楽部の運営にしばしば支障を来すという悩みを賢治に訴えていたのではなかろうか。

  その2年後の昭和4年夏、甚次郎は鳥越倶楽部の同志6名と禁酒運動の街頭演説会を企画している。Aは宗教と禁酒、Bは子供と禁酒、Cは食料問題と禁酒、Dは平和と婦人問題と禁酒、Eは農村経済と禁酒、Fは国民保険と禁酒と分担して街頭演説会を開始し、毎晩場所をかえて7カ所で禁酒演説を行ったのです。

  甚次郎は賢治より2歳若く賢治の死後10年後の昭和18年8月4日に35歳の生涯を閉じたが、『ポラーノの広場』のファゼーロらのように鳥越倶楽部(後に鳥越協働組合)をつくって麹製造、しょうゆづくり、ホームスパンなどを生み、また羅須地人協会のような最上共働村塾を開塾し、精神歌を唄い、雨ニモマケズを朗読する日課を組み賢治的な村塾を推進したのです。

 ■ 詩篇「藤根禁酒会へ贈る」(抜粋)
 
  諸君は東の軽便鉄道沿線や
  西の電車の通った地方では
  これら運輸の便宜によって
  殆ど無価値の林や森が
  俄かに多くの収入を挙げたので
  そこには南からまで多くの酒がはひって
  いまでは前より却って前より乏しく
  多くの借金ができてることを知るだろう
  しかも諸君よもう新しい時代は
  酒を呑まなければ人中でものを言えないやうな
  そんな卑怯な人間などは
  もう一ぴきも用はない
  酒を呑まなければ相談がまとまらないやうな
  そんな愚劣な相談ならば
  もうはじめからしないがいゝ
  われわれは生きてぴんぴんした魂と魂
  その輝いた眼と眼を見合わせ
  たがひに争ひ笑ふのだ
  じつにいまわれわれの前には
  新らしい世界がひらけてゐる


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