盛岡タイムス Web News 2012年 2月 15日 (水)

       

■ 〈口ずさむとき〉268 伊藤幸子 中国の古都

 没りつ陽の赫く染めたる巷(ちまた)にしおとがひ薄き顔と往き会ふ
                              鈴木英夫
 
  「揚子江の岸から約五十メートル乃至一〇〇メートルほど離れて、ほぼこれと平行に走る街のメーンストリート、戦火による破壊の跡は、まだ完全に癒えていないが、東西に長いこの大通りの、ほぼ中央に位置する四辻の、粗末な時計台があるあたりを中心に、かなり賑やかな日本人たちの商店街が出来上がっている」との描写は、昭和14年、前年の漢口攻略戦から立ち直ったころの、中国九江市街の様子を述べた文章である。

  一昨年10月、98歳で亡くなられた医学博士であり歌人、文明史家、評論家、小説家等多彩に活躍され著書多数。明治45年2月9日、神奈川県高座郡座間村生まれ、神奈川の穀倉地帯で代々地主さんの家系。昭和12年、25歳にて軍医中尉として召集。「昭和13年の正月は、西湖で名高い中国の古都杭州で迎えた。この街に入ったのは暮の二十五日、飢えと寒さでがたがたふるえていたが気持ちは不思議とのんびりしていた。三日になると正月用の酒のおくれが届いた。火力発電が復旧し、ほんの僅かの時間電燈が点り上海放送のラジオが〈青空〉の曲を鳴らした…」と伝える。

  太平洋戦争よりもさらに古い中国との戦争を書かれた随筆集「しろつめ草」と「コスモス一万本」を、鈴木英夫先生の誕生日と前後して読み返した。ご著書のとびらにはいつも歌がしたためられてあり、前者には「甘棠(かんとう)湖秋はや冷ゆる水に来てあそべる鴨の連れもあらなくに」とあり平成十一年十月九日の日付が入っている。掲出歌の「おとがひ薄き顔」とともに、私にはそのころ悲風吹き荒れた時節でもあり、先生のお気持ちに力づけられた。医は仁術そのものの先生に救われたのは私ばかりではない。

  ある方は箱根で行われた全国短歌大会でにわかな発熱に、急きょ鈴木先生の診察を受けられて、事なきを得たとのこと。医学博士ご臨席の短歌会はなんとも頼もしいことだった。

  先生は終戦まもないころより自転車での往診をされ、中国の故事にならって「三上」つまり「馬上、枕上、厠上(しじょう)」にて文章を練る例に「車上」を加え、鈴木四上説を実践された由。でもある時、布に包んだ往診鞄を荷台につけて「車上創作」中、駐在さんにヤミ屋かとまちがわれた笑い話もあり、時代を感じさせられる。晩年まで診察を続けられ、自宅にて永眠。私の座右のご本には先生のご筆跡が躍っている。
  (八幡平市、歌人)


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