盛岡タイムス Web News 2012年 2月 17日 (金)

       

■ 〈胡堂の青春育んだ書簡群〜学友たちの手紙〉64 八重嶋勲 口から出るのは只々大々失敗

 ■村井庄二郎

  89 巻紙 明治35年7月5日付
(封筒なし)

宛 野村ドクトル様
発 村井藪医者(村井庄二郎)
 
野村さん
口から出るものは只々大々失敗とさい(え)づる計る(り)、到底だめ一縷の望みだになし、お医者さんの學校には匙をなげられ、見放されたこの一人の入學患者こそなにもかも虎の年の御運の悪い年よ、虎去って卯兎来るべし、皆さんの戰勝を祈る、南無八幡大菩薩、別けては斯波の赤石大明神、平賀さんへも宜敷何時御帰国なされます、早々
   七月五日        村井藪医者
  野村ドクトル様
 
  【解説】前の手紙の後藤清造の文章の中に「村井君も一日より御上仙なり、医学専門学校の試験をうけられ居り候」とある。村井庄二郎も、後藤清造同様、試験に失敗したようである。
 
  ■野村長一

  90 明治35年8月7日付

表 東京市牛込區 早稲田大學部御中
裏 岩手縣紫波郡 彦部村大巻 野村長一 36年8月7日
(封筒のみで中身が無い)
 
  【解説】七月五日付、後藤清造の手紙に、「早稲田の高等ヨ科でハ九月追募集するとの事、今はそれへ参るべしと存じ候」とあるので、長一も、早稲田を受験しようと、受験願書を提出したのではないかと思われる。封筒のみ残っており、切手を貼っていないところを見ると、願書を持参して中身を提出してきたものであろう。
 
  ■岩動孝久

  91 はがき 明治35年9月16日付

宛 本郷臺町十九番地 三州舘 野村長一様
発 東京青山 T・ST・ISURUGI(岩動孝久)
 
野村兄足下、
余は君と別れて遠く離れ住むことを悲む、月よき夜この構内のうれしきけしき見ては君と共にあらんことを願い、雨雲いと低く硝子窓を壓すときは雨ふる恐れを知らで遊ぶ君なきを恨む、されど共に別れて今つとめずんば年はいと早くも過ぎ行かん、いかで白髪の後横文字まじりに若きものとのつきあいも出耒るんや。など思ひかへすなり、願くは君つとめよ、郷に在す両親のおもひたりや如何ならん、浅草見よ、パノラマ見よの上京御意見にもあらざるべし。人は親が我を如何に思ひ居ますやに気をとどむるとき、はじめてつとむる心出づ、怠る勿れ、老婆心切君これをこちたしとやいはん、ゆるせ友、今我はいたく無学なるものの恥かしきにうたれたるところ也。余はこの土曜か日曜を待ちに待ちて君を訪ふべし、土曜なれば六時頃、日曜なれば八時半頃ならん家にあられんことを望む。一週の会見はいかに楽しかるべきを思ヘ、而して一週のつとめをはげむべし。父より書信余へあて耒らざりしか。抱琴兄、キ人兄、五山いづれよりも音づれなきや、康治の小さき時計いつか錦町へまわりて三郎氏よりとりくれ玉へ康治よりいいこしたり
 
  【解説】郷里の両親の願いを思って、受験勉強に励め、努めよ、と親友岩動露子(孝久)が切々と諭す。そして一週間に一度会うのを楽しみにしているのである。岩動露子は、2年後の明治37年に東京外国語学校の仏語科に入学しているので、この時点では、上京受験勉強中であろう。「いかで白髪の後横文字まじりに若きものとのつきあいも出耒るんや。など思ひかへすなり」と、その勉強中の一端がうかがえる。「康治の小さき時計いつか錦町へまわりて三郎氏よりとりくれ玉へ康治よりいいこしたり」と、ここでも(飯村、飯岡?)三郎が出てくる。


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