盛岡タイムス Web News 2012年 2月 18日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〜七つ森から溶岩流まで〉250 岡澤敏男

 ■12使徒の中のヨハネ

  松田甚次郎と宮沢賢治との交友は昭和2年から6年までのわずか4年間のことだったが、「私の過去12年間の微動だにもせず、悲しいときも辛いときも先生の申された一言一句を思ひ浮べて反省し激励されたのである。…先生はまことに美しい教訓を死しても残るものを賜った」と「宮沢先生と私」(『宮沢賢治研究』T草野心平編)で語っている。

  甚次郎にとって賢治とはラビであり、初めて訪問した昭和2年3月8日は賢治からパブテスマを施された聖なる日だったと言える。「小作農たれ、農村劇を行え」との言葉は「死しても残る」肉体だったのです。

  賢治の「ポラーノの広場」で描いたようにファゼーロ・甚次郎は鳥越倶楽部(鳥越働同組合の前身)を組織し「酒を呑まず水を呑む」禁酒運動を実施し、麹室↓しょうゆ製造、ホームスパンなど農産加工や婦人擁護、託児所の設営などの福利厚生事業を実施しながら昭和7年には営林署の古い小屋を借りて「私共の小さな村塾(最上共働村塾)」を開塾しました。

  この塾は「徹頭、宮沢的なものである。精神歌を唄ひ、先生の碑文を読みして羅須地人協会の様な小二階建の塾舎の裡で奥羽山脈越しに北上川を眺めてゐるのである。宮沢先生の真実を生かすのである。宮沢先生の肉体はどこをいつまで探しても見当たらないけれども、先生の精神体は、今此所にある我々の中に、あるのである。私共の涙の中に、私共の血の中に、あるのである。土に叫ぶ多くの青年の中に生きて光を放って居るのである。」と農業を継ぐ若者たちに賢治の言葉を伝え、「私は先生の命を報じ、先生の肉体としてはげんではげんで自ら身命を惜しまないのである」と「宮沢賢治と私」のなかで述べている。

  甚次郎はまさに12人使徒のなかでキリストから一番かわいがられたヨハネであり「言は肉体となりて我らの中に宿れり」(ヨハネ福音書)ということなのでしょう。

  賢治が大正15年8月に発足した羅須地人協会の理念は「農民芸術概論要項」と「稲作指導・肥料設計」にあったものと思われるが、昭和3年8月「ヒデリや稲作指導を心配して奔走し、とうとう病臥するまでの、足かけ三年でおわる」(堀尾青史著『年譜・宮沢賢治伝』)ことになります。

  賢治の理念を山形県で実践した甚次郎は、農民芸術の中核である農民劇を昭和3年から亡くなる直前の同18年3月まで連年上演し、また「生産共同体」を目指した「最上共働村塾」を昭和7年に開いて毎年10名(定員)の有意なる農村青年たちと4月1日より2月末日の11カ月間を合宿し、次のような実習と学科を学習している。

  実習には畜産〔綿羊・豚・鶏・蜜蜂・馬・牛〕農産加工〔醸造・澱粉加工・羊毛加工〕農場〔立体農業・飼料作物・そ菜・果樹・水田・普通作物〕が行われ、学科には〔農学・農産加工、有畜農業、立体農業〕、経済学、国史、そして農村劇も実施されていたのです。

  しかし、昭和18年は田植直後から40日にわたって一滴の雨も降らぬヒデリが襲い、田はひび割れ、稲は黄ばみ、甚次郎は村人を励まして走り回り憔悴(しょうすい)して持病の中耳炎が再発した。7月27日、雨乞いのため村から8里もある八ツ森権現にに登攀(とうはん)して祈願して帰宅後、重体に陥りただちに入院加療したが8月4日午前9時に息を引き取りました。

  ヒデリが賢治の羅須地人協会の幕引となったように、賢治の使徒甚次郎もヒデリによって倒れ、最上共働村塾は死後11月26日に閉塾式が行われたのでした。

 ■最上共働村塾の開塾趣意書(抜粋)
 
  (前文省略)先ず第一は、本物の人間だ。故に村塾は現在の学校教育の弊を徹底的に矯正した人格教育であり、勤労教育であり、生活の訓練であります。一定の教科書とか、入学試験とか授業料に関与せず、唯々真に人類と祖国を愛し、村を愛し、土を愛し、隣人を愛し、永遠に真理を探求していく純潔なる若者達と、全生活、勤労を共にし、出来得る限り、その実践を通じて、総てを科学的に研究し、各人の個人能力を確認し、以て自家の職分と生活の合理化、経営の最善に努力し、社会生活型の何物なるかを明らかにしたいのであります。(略)

  一面経済生活から見ましても、特に今日の様な農村の危機に際しては、何故にかかる事情を来したかを、突きつめて探求し、且つ自給自足的集約経営も、有畜山岳立体農業経営も、研究を深めて、山岳日本国土の永久的発展まで進めたいのであります。農村をどん底の立場や、不景気、失業苦のない明るい規範の社会を招来するまで努めねばなりません。(略)

  新しい時代には、その時代に先駆する人物と組織を要求します。(略)我等は、かゝる社会的に重要なる使命により、青年教育革新の立場から、全国の村塾教育家諸賢の教示を仰ぎつゝ、共働の士の努力によって鳥越の山麓の風光に共鳴しつつ、開塾した次第です。

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