盛岡タイムス Web News 2012年 2月 19日 (日)

       

■ 〈大震災私記〉117 田村剛一 悲しき知らせ8

 釜石時代の教え子とばったり会った。「先生、大丈夫でしたか」と声をかけられた。
  「俺の方は大丈夫だが、君の方は…」と聞いた。鵜住居出身なので心配していたからだ。「私の家は大丈夫ですが、孝ちゃんが…」「孝一君か」「はい、孝ちゃんが、奥さんと一緒に亡くなりました。娘さんもです」。

  その言葉を聞いて、また一つ悲しい知らせが増えたと思った。いつになったら「よかった、よかった」と言って肩をたたき合う日がくるのだろうか。

  この「孝ちゃん」と言われる教え子も忘れることのできない教え子の一人である。

  私が釜石北高に赴任したのは、昭和41年4月。そして、1年H組の担任になった。

  入学式にハプニングが。厳粛な式が進み最後に担任発表になった。いよいよ私の番。紹介役の教頭が力んでしまったからたまらない。「エッチの担任は…」とやってしまった。今までしんとしていた式場は一瞬にして爆笑の渦。これ以降、私はエッチ組の先生にされてしまった。

  クラスには、地元鵜住居出身の生徒が多く、教員住宅にもよく遊びに来た。「孝ちゃん」もそうだし、「孝ちゃんが…」と言った生徒も一緒。

  この生徒たちに連れられ、近くの山に水晶採りに出かけたことがある。夢中になってハンマーで岩を砕いていると「先生、人が来る。隠れて…」と言われびっくりした。生徒の家の持ち山とばかり思ってついて来たのだが、他人の山の水晶を掘っていたのだ…。

  夏にはクラスの男女生徒6人ばかりと釜石から大船渡、一関、花巻をめぐる3泊4日のサイクリングをしたことがある。当時は45号線の改良工事は進まず、でこぼこの山道を汗だくだくになりペダルを踏んだ。

  私が釜石を離れて初めて孝ちゃんに会ったのは、盛岡二高時代だから20年ほど前。修学旅行で神戸の異人館を歩いている時だ。坂道を登っていると、背後で「先生」と呼ぶ声がした。先生はたくさんいたので、振り向きもせず前に進んだ。するとまた「先生」という声が。どこかで聞いたような声、振り向くとカメラを手にした孝ちゃんだった。

  驚いた。こんな所で、30年前の教え子に会うなんて考えもしなかったこと。
  「アルバム用の写真を撮るため、生徒たちに同行して来たんです」。孝ちゃんは写真店に勤め、釜石の高校の修学旅行に同行していた。「今度、みんなと会いたいね」「みんなに声をかけておきますから」。これが、孝ちゃんとの最後の会話。悲しき知らせが多くてやり切れない。
  (山田町)

本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします