盛岡タイムス Web News 2012年 2月 21日 (火)

       

■ 〈大震災私記〉120 田村剛一 悲しき知らせ 10

 震災後、初めて会う人には「良かったね、助かって」というあいさつをしていたが、それが間違いであることを何度も知らされた。

  2年前、役場職員を退職した知人がいる。この知人も、その娘も、共に教え子。長く教員をしていると、2代にわたる教え子というのは珍しいことではない。ただ、それを口にする親子もいれば、それを隠す親子もいる。話すか隠すか、それは生徒時代の関わり方で違ってくる。この親子は口に出して言っていたから、悪い関係ではなかったのだろう。

  その知人に会った。「助かって良かったね。皆さんはどうしている」。全員助かっているものと思い、そんな言葉をかけた。ところが、返ってきた言葉を聞いて絶句した。「家内と親父がやられました」

  何としたことか。父親は体調を悪くして休んでいると聞いていたが、まさか奥さんが一緒に流されるとは信じられないことだった。避難場所はすぐ近くだったのに。体の不自由な義父をそのままにして、一人逃げることはできなかったのだろう。従弟の妻が義母と一緒に流されたのと同じ。嫁のつらい立場に胸がつまる。

  いつも、店の前を通ると「田村先生」と言って手を上げてくれる娘がいた。私の教え子でないのに「先生」と言ってくれるのは親がそう呼んでくれていたのだろう。その娘が流され亡くなった。一緒に父親も。

  店は、旧山田のはずれ境田地区にあった。小高い場所だったので、津波に襲われるとは考えもしなかったのではないか。

  一度、飲みものを買いに店に入ったら「田村さん、見せたいものがある」といわれ、家に案内された。

  2階が居間になっていて、下に海が見えた「ここから見る日の出が、山田一の絶景ですよ」といって写真を見せてくれた。湾口から真っ赤になって昇る太陽だ。

  山田湾は湾口が狭く、湖のようになっていて海の十和田湖といわれる。その湾口が、この家から正面に見えた。

  「6月になると、湾口の真ん中から太陽が昇るんです。その時がきたら知らせますので、見に来てください」「その時は、ぜひ伺います」。そう約束して別れた。

  戦時中、私の父と知人の父は同じ工場で働いていた。戦後、知人の父がその工場を引き継ぎ、水産加工業を行った。イカとっくりを最初に手がけたのが、この知人の父である。

  湾口から昇る太陽を楽しみにしていたのに、知人は娘と運命を共にした。娘には、ちょっとした障害があり、一人残して逃げるわけにはいかなかったのだろう。子を思う心情を考えるとつらい。「田村先生」そう言って遠くから手を上げてくれた娘の姿が忘れられない。
  (山田町)


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