盛岡タイムス Web News 2012年 2月 22日 (水)

       

■ 〈大震災私記〉121 田村剛一 遺品を探す人たち

 半壊家屋や倒壊家屋が残っている間は、よその人がその家に近付くことは難しかった。

  自衛隊や消防団員が、遺体捜索をしながら盗難防止に当たっていたからだ。「空き巣狙いが出没している」とか「中国の窃盗団が侵入している」といううわさが、まことしやかにささやかれたりした。

  捜索をしている家の中をのぞくと、自衛隊員から「どちらさんですか」と聞かれることが多かった。自衛隊の地区責任者は、私が自主防災会の会長にあることは、あいさつに来て知っていた。しかし、一般隊員は私を知らない。それに1週間か2週間で交代していたのだろう、いつも新顔になっていたからだ。

  私でさえ、他人の家に近付くことは気持ち的にできなかったから、一般の人、ことにも地区外の人は、なおさらであったろう。

  母親同士が従姉妹関係にある人の家が、私の家近くまで流されて壊れた。それでもその家を外から眺めることはあっても、家の中をのぞくことはなかった。

  そんな中、毎日のように家の建っていた場所に来て、がれきの中、しきりに物を探す人もあった。何日も何日も無心に探しているところを見ると、大事なものに違いない。

  この大事なもの、それは人によっても違った。その一つが位牌、金庫、家族の写真やアルバム…。私の家の付近は、津波の先端、位牌やアルバムが流れてきた。それに自動車。自動車は私の庭だけでなく、さらに上に流され道を塞いでしまった。自動車が水に浮いたのには驚いた。

  母と同期、94になる女性が一人、わが家の向かいに住んでいた。同期生ということもあって、母は毎日のように、この人の所を訪ねていた。その姿を見ていて「同級生はいくつになってもいいもの」と思っていた。

  その人の家も、押し寄せられてきた建物で倒壊、2階が道路に押し出され、そこでつぶれて完全に道を塞いだ。そこに、がれきが流れ着き、がれきの山をつくった。母の友人は、心配してきた孫に背負われ、寺に逃げて間一髪助かった。

  助かった女性の息子が、保育所前の道路で流れ着いたがれきをえり分けながら、物を探していた。

  「母のものがある」と言う。母の同期生は自分の持ち物には必ず名前を書いていたので、すぐ分かったという。

  そのうち「見つけた、見つけだんせ」と言って、手に拾い上げたものがある。位牌であった。「母が苦にしていたもの、見つかってよかったよ」。年寄りにとって、命よりも大切な位牌だ。実は、いったん避難しながら位牌を取りに戻り、犠牲になった人もいたのだ。
  (山田町)


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