盛岡タイムス Web News 2013年  7月  6日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉322 岡澤敏男 父へのコール・サイン

 ■父へのコール・サイン

  たしかに『疑獄元凶』という短篇は、「いったい、これは何だろうと思うような不思議な作品」(森荘已池)なのかも知れない。素材は五私鉄疑獄事件の被告である鉄道大臣だった小川平吉の揺れ動く心理を扱うもので、果たして父政次郎が指示した「大衆が読んですぐ分かるようなもの」だといい得るか難しいが屈折する心のひだのこまかな描写に、きっと読者がひきつけられるでしょう。もちろん小説のことだから虚構は許される。「洞源和尚」とは座禅をひろく勧めた曹洞宗永平寺の開祖「道元和尚」のもじりとみられ、「高田小助」は「小川平吉」の実名を避け変名を用いたよくある虚構的手法だろう。しかし主人公の回想に本人とは無縁とみられる寺院の浄土真宗「徳玄寺」、曹洞宗「清源寺」を導入したのは、単なるもじりや変名などではなく、いささか手のこんだ虚構を意図したものだったとみられる。すなわち、この虚構が暗示するものは父政次郎へのひそかなコール・サインであったということです。

  このことはすでに前回の中で触れていますが、賢治が大正2年盛岡中学4年の3学期に寄宿舎の舎監排斥の騒ぎを起こして寮を追い出され、たまたま下宿したのが北山(名須川町)の曹洞宗清養院でした。短篇では清養院をもじり「清源寺」としている。現住職夫人に拝聴するところによると、この寺への下宿は中学で教わった師範学校の書道の先生の紹介だったらしい。清養院の先代住職(稲田泰岩)と書道の先生は昵懇(じっこん)の間柄だったという。寺の通用口の玄関を上がると六畳間があって賢治が机と本棚を並べていたという。この部屋の廊下を隔てて庭があり、当時はクリの大樹が数本あった。賢治はこの部屋からクリの木立をよく眺めていたので「清源寺(清養院)裏山の栗林!」と回想する根拠があるわけです。クリの木立は庫裏の増築などにより伐採されてしまったが、その樹幹の根元の部分を輪切りにして仕上げた不定形(長径137a、短径96a)の見事なテーブルが本堂脇の控えの間に保存されている。清養院の下宿生活は4月より2か月ほどで、5月末には清養院の向かいの浄土真宗徳玄寺に下宿を移っていった。政次郎は菩提寺の浄土真宗安浄寺檀家総代でもあり徳玄寺住職とは面識があったらしい。両寺院と賢治との関わりをよく知る政次郎は両寺院の出現は被告人を小川から賢治自身へと転換させる意図であると直感したのでしょう。被告席にいて父の視線に堪えぬいて来たわが子賢治の懺悔(ざんげ)する独白を読み終わった政次郎は無言で作品を賢治に返したという。その政次郎の態度について森荘已池氏は「どうしたことか、読み終わったあと全く何もいわなかった。ほめることもなく、くさすこともなく、ふだんのままの顔つきであったーと、清六さんが言っている。/このときのお父さんの態度は、私には、よくわかった。(黙して語らずということは、賞めたことなのだと思う。)」と書いています。だが政次郎は「ほめる、ほめない」とは別次元のとても複雑な心境のエアポケットにあったのでしょう。その述懐の「中原逐鹿三十年、恩怨無別星花転」の詩文に、余命幾許(いくばく)もないわが子へのやりきれない愛しさが急迫し言葉を失ったものだと思われる。賢治はすでに2年前の昭和6年秋に、父母宛の遺書、『雨ニモマケズ手帳』に、わがままな人生をわび、父母の慈悲に感謝するメモを書き残していたのです。

■『雨ニモマケズ手帳』(10・20)より

◎疾すでに 治するに近し
警むらくは 再び貴重の健康を得ん日
苟も之を 不徳の思想 目前の快楽
つまらぬ見掛け
先づ―を求めて 以て―せんといふ風の
自欺的なる 行動に寸毫も 委するなく
厳に 日課を定め
法を先とし
父母を次とし
近隣を三とし
農村を
最后の日課として
只猛進せよ
利による友、快楽を同じくする友
尽く 之を遠慮せよ

 


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