盛岡タイムス Web News 2013年  7月  18日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉63  菊池孝育 大正末期の岩手県出身者6


  ■西磐井出身者の住所

  この時期(大正15年9月)、阿部昇右衛門は内田盛と共にオーシャン・フォールズで働いていた。ソーミル・ボスの内田を補佐していたものであろう。

  千葉養吉はバンクーバーに居て230 Alexannder St.の住所となっている。日本人街パウエル・ストリートの隣にある比較的短い通りである。妻よし、次女昌子との3人暮らしであるから、おそらく食料品店のような店を自営していたと思われる。

  小野寺富蔵もバンクーバーに住んでいた。住所は600 Cordova St.である。当時の人たちはカドバ街と呼んでいた。パウエル街を挟んで、アレクサンダー街とは反対側を東西に延びる通りである。この通りには日本人の自営者が多かった。人名録では富造となっている。

  菅原運吉はニュー・ウエストミンスターで働いていた。すでに現地で、妻はるのを亡くしている。ここはバーナビーの東、フレーザー河に面した地域であるから、鮭漁に従事していたと思われる。住所はC/O Y.Suzuki, R.R. No.1 Sunbary New Westminsterとなっている。鈴木弥之助方に寄寓していた。鈴木はたぶん、登米郡出身の先輩漁師と推察される。

  佐藤潤次カはバンクーバーの1939 Commercial Dr.に妻ちよ、カナダ生まれの長女芳子と共に住んでいた。日本人街と言われたパウエル街からかなり離れている。バンクーバー中心地からも遠い。そこで「佐藤潤次カ商店」を経営していた。何を商ったか定かではない。当時、電話(High. 3349)を備えていた。

  ■その他の出身者の住所

  下閉伊郡花輪村(現宮古市花輪)出身の大洞武光はバンクーバーに住んでいた。住所は1943 Charles St. となっている。チャールズ通りはレンフルー街とヌートカ通りの間のほんの2、3ブロックの短い通りである。パウエル街から離れていたけれども、電話(High. 2124Y)を設備していたことから、商店か何らかの事業を営んでいたと推測される。

  上閉伊郡宮守村(現遠野市宮守町)出身の山崎安次郎(人名録では安二郎)の住所はKeno City Cafe, Keno Hill Y. T.となっている。北方のアラスカ国境に近い、ユーコン準州〈テリトリー〉のキーノ・ヒルで働いていた。ここで1919(大正8)年に銀、鉛の鉱床が発見され、多くの人たちが一獲千金を夢見て集まった。Kenoはキーノと読み、賭博の一種である。Keno City Cafeは抗夫たちの娯楽施設で、中では彼らの金を目当てに賭博を開帳していたものであろう。山崎はそこの使用人であったと考えられる。当時、多人種の集まる施設を日本人は所有できなかったのである。キーノは鉱山の撤退と共に衰微して、現在は人口20人ほどの過疎の集落となっている。

  気仙郡廣田村(現陸前高田市広田町)出身の大和田福三郎の住所はSouth Westminsterとなっている。ニュー・ウエストミンスターの一角、フレーザー川を挟んで、南東に位置していた。当時、農地や牧草地に点々と住宅が建ち始めていた。彼は宮城県石森出身の妻やちよ、カナダ生まれの長男孝次との三人暮らしであった。フレーザー川の鮭漁師として登米コロニーで働いていた。実際の彼の姓は、妻やちよの姓の高橋である。宮城県出身者の名簿には高橋福三郎で載っている。


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします