盛岡タイムス Web News 2013年  7月  22日 (月)

       

■  〈新・三陸物語〉21 金野静一 大船渡湾史11


     
   
     

  人が集まり物も集まって、それに「渡り」と称せられるほど交通・交易が盛んになれば、人の集まりも物資の交易も恒常的になり、集落も大きくなり、固定化するようになる。

  これが新宿であり、新宿(にいじゃく)と呼ばれる集落となるのだ。いわゆる都市的機能が漸次備わってくることになる。大小の違いはあっても、成立と発展の機能は同一のものであるはずである。

  塩をはじめ、豊富な海産物を有する気仙と内陸部の交易は、それこそ歴史が始まって以来、行われ続けている。平泉の藤原氏の時代には、海面と北上川を結ぶ海上輸送が盛んに行われていた。

  「―秀衡公の平泉において、堂社・仏閣・居館など造営のため、諸方に命じて良材を求めしむ。これにより当村垂氷(たるひ)山より萩の柱等名木を海上に輸送せしめ、この時、神明社につき、重成をして船筏難無きことを祈願せしむ。(米崎町松峯神明社文書)」

  この時代、平泉や気仙との交易は、決して産金のみではなく、木材や海産物も早くから行われていた。

  その海に対して、陸路を利しての交易も盛んであった。日頃市の字宿(しゅく)は、もとは六日市とも称した。月に3度、六の日に市が立ったのである。しかし時代が進むと、盛(田茂山)の市の発展によって、自然に解消していったものと思われる。

  旧気仙郡には、かつて七つの市が立ったという。長部二日市、有住の八日市、日頃市の六日市、横田と小友の三日市、それに高田の五日市、盛の五市で計七つの市。それが月3度の市立てで、月のうち21日は、気仙のどこかで市が立っていたのである。

  このような「市と宿」、それと館には、中世の郷村の領主たちにとっては、大いに関連がある。

  赤崎の宿は、海の渡りに、日頃市の宿には主に陸路に関する輸送や交易に関連ありと考えられる。交通輸送と交易で、集落の拠点ともなる宿は、役銭の割当てが目的の一つでもあるので、自然的に発生した宿でも、領主たちはこれの育成に力を注ぐことになる。

  この機能が活発になれば、その「渡り」や「辺り」の産物の価値が高まることとなり、気仙地方で言う「マチの日」、すなわち定期市の設定についても、そのような地域が選ばれるのが通例であった。

  大船渡に在る新宿について、地元の古老は、「新宿の奴らは、その名のように新しがり屋で、ハイカラ者が多くいたもんだ…」との意を話しているのを聞いたことがある。良しあしは別として、新宿発祥の事情の一端を語るものであろう。

  この新宿は、おそらく盛の田茂山館主の佐々木氏、あるいは猪川の築館の新沼氏といった地頭の領内下に置かれたものであろう。

  なお末崎の西館(武田丸)も、泊里湾をひかえているので、「海上の宿」のような所に位置していたのかもしれない。



本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします