盛岡タイムス Web News 2013年  7月  25日 (木)

       

■  〈風の筆〉10 沢村澄子 「猫女」


  にゃー、と一声、わたしは時々自分を猫女ではないかと思うことがある。少なくとも前世は猫に違いなかった。

  なぜなら、人の気持ちより猫の気持ちの方がよく分かるからで、また、自分が、人より猫に、より理解されていると感じるからだ。

  昨日も、朝の散歩でクロちゃんの家の横を通った時のことである。クロちゃんは真っ黒な中性猫で、歳はすでに80を過ぎているのだと飼い主のおばあちゃんが言っていた。おばあちゃんは83歳。

  そんな歳には見えないクロちゃんの身のこなし。初めて会った時には、目が合うや、母屋の縁の前に置かれた椅子からぴょんと飛び降り、ツツツーと庭を突っ切ってわたしの足元まで来て、ごろん、と寝転び、黒い腹を見せた。

  以来、わたしは、わたしの姿を認めては走って来てくれるクロちゃんのその黒い腹を喜々としてさすっている。

  昨日はクロちゃんの家の縁に見たことのない三毛がいた。品のいいキレイな猫で、やはりここの家の猫なのか、わたしはなぜだか「にゃあ」と鳴いた。あちらもなぜだか「にゃあ」と鳴いた。もう一度わたしが「にゃあ」と鳴くと、あちらもまたまた「にゃあ」と鳴いた。それから瞬く間に生け垣をくぐり走り来て、すでにわたしの足元からわたしを見上げているその三毛。思わず抱き上げると、わたしの右頬をペロリ。まだ青年のような、少女のような、光る毛をしたキレイな三毛である。

  不思議とクロちゃんの声を聞いたことがない。不思議とわたしは日本語でクロちゃんに話しかけている。「おはよう」「来たよ」「おいでおいで」「クロちゃん」「こっち」。ありがたいことにクロちゃんは必ず走り寄って来てくれるけれど、実は本名は「ピリコ」というのだと、つい最近、近所の奥さんから聞いたのである。

  「この辺で一番賢い猫だね。人を見る目があるんだよ」と奥さんは言った。それから「ピリちゃん、ピリちゃん」とニックネームでクロちゃんを呼ぶと、いつも通り一目散に走って来るクロちゃん、いやピリちゃん、が、迷うことなくわたしの足にすり寄った。

  奥さんはアゼン。空気は凍結。それから、朝すれ違う時の奥さんのあいさつが、心なしかちょっと冷たい気がする。

  黒いクロちゃんが、なぜピリコと命名されたのかわたしは知らない。そのピリちゃんが、なぜ鳴かないのか、声が出るのか出ないのかも、わたしは知らない。本当にピリちゃんなのか、実はクロちゃんなのかも知れないとも思うが、ただ、クロちゃんに人を見る目があるとはどうしても思えないのである。というより、猫に人を見る目があると思えないのだ。

  クロちゃんも三毛も、ただ猫女と戯れているに過ぎない。彼女が、人間より自分たちに随分近いから。そして、人間が、言語や互いの姿かたち、賢い知識、愚かな臆測などから解放され、もっと単純、純粋なコミュニケーションに生きることができたなら、そこに、ニャンとも大切な相互理解というものが生じるのではニャいか、などということも、彼らはおそらく考えていない。(盛岡市、書家)


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします