盛岡タイムス Web News 2013年  7月  27日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉325 岡澤敏男 政次郎の求道する転機


 ■政次郎の求道する転機
  宮沢政次郎のことは、金沢大学暁烏文庫蔵の『暁烏敏宛宮沢政次郎書簡集』編注者である栗原敦氏が詳しいと思われます。栗原氏は『宮沢賢治ハンドブック』(天沢退二郎編)に「宮沢政次郎」について執筆しているが、このなかで「父子の厳しい対決・対座が繰り返されたとはいえ、それにあたいするだけの相手であったことの具体性を踏まえて人物像は理解されなければならない」との指摘は異存なく首肯するものです。また前述『書簡集』の「はしがき」において、「これらの書簡を読む時、そういった一般性をこえて、宮沢賢治というひとつの存在が、まさに親子二代の産物に他ならぬ、という思いを禁じえない」という見解についても、その意味を敷衍(ふえん)するために政次郎のより具体的な人物像の解明が必須だと思われます。だが年譜類その他において、父政次郎の人物像は概念的な資料しか流布されていず、いまひとつ釈然としないものがあるのです。

  根本資料というべき年譜(『校本・宮沢賢治全集』第14巻)には「政次郎は理財家であるが、求道の人である」とあるが、理財のことは別として「求道」に関しては「弟治三郎が一九〇三(明治三六)年二七歳で若死して、政次郎の求道はいよいよ強く、仏教書を多く購入する一方、仏典パンフレットを自費配布した」と説明されているだけで、求道への契機は不明です。宮沢家は代々浄土真宗の門徒であり「日常生活が仏壇で規制されているといってよいほど、どっぷりと仏教的(浄土真宗)環境の中にあった」から、青年期の政次郎が真宗篤信者であったことは理解できる。しかし篤信が「求道」へと向かう契機は何であったか不明なのです。例えば『校本・全集』は461nの注3で高橋勘太郎については「少年時代奉公した盛岡の池野家で写経を命じられて開眼し、以後深く仏説を学んだ」と求道の経過を説明しているのに、政次郎の年譜ではまったく触れずに、ただ「弟治三郎が…二七歳で若死して、政次郎の求道はいよいよ強く」と述べているだけです。強いて深読みすれば、この叙述部分に間接的な求道への契機が暗示されているのかも知れません。

  栗原氏は、次の暁烏敏宛書簡によって政次郎の求道契機を推察している。「私も戦役前後の身体具合にては迚も今日頃迄の生存も覚束なく存じ愈々無為にして此世を辞せんかの間進退窮する処忽ち一道の御光に接し初めて究竟の安慰を得申し候」(明治41年5月2日)。戦役とは日露戦争(明治37〜38年)のことで、政次郎は生死に関する健康上の問題があったらしい。政次郎を補佐し家業を手伝っていた弟治三郎が、明治36年11月に27歳の若さで急死するという打撃が加重したから、「進退窮する」ほどの精神的な苦悩に呻吟していたとき、「忽ち一道の御光に接し」たと告白しています。この「一道の御光」とは歎異抄の「弥陀の請願不思議」を指すものとみられ、この御光により初めて「究竟の安慰」を得たという。「究竟」とは最高という仏意、「安慰」とは成仏を保障する安心感の意味で阿弥陀如来への帰命を新たにした意味にとられる。なお前記書簡には「弱き身の娑婆逗留中ハ一年を送るも容易の辛苦にハ之無く御座候 是れ物しふとき身に付属せる重障にして同時に又是によりて浄土の門を叩く恩寵と被存申候」と重複して記載しており、求道への転機を示唆するものと推察されます。

■暁烏敏宛宮沢政次郎の書簡より(抜粋)

  明治41年6月6日発信
  (前略)昨日又御来信ニヨレバ貴師肺部異状有之候由不少不安ト痛愁ノ思ヒニ打タレ候(中略)肉アル間ハ苦悩モ免カレ難キ人間ノ常ニ存候常住ノ生命ヲ獲得シテ大安住セラレシ御身ニハ去来平然タルモノニハ有之候ナランモシカモ凡情ヨリスレバ普通ニ肉体ノ破壊ヲ宜スル底ノ病気アリト聞ク時ハ聖者ナラヌ我々共ニハ一時ノ恐レト不安ハ慥カニ有之候ナラント存候 サレド大ナル安住ヲ獲タル仕合ニハ恐レモ悩ミモ幸ニ一時ニ止マリ冷静ニ又為スベキ事ニ従イ得ル事ト奉存候 弱キ身ヲ持テル私共モ屡々経験有之腸結核ニハアラズヤ脊髄異状ニハアラズヤ呼吸器異状ニハアラズヤト思惟スルトキ言イ知ラヌ不安ト惜愕トヲ感ジ候ヘ共幸ヒニモ常住ノ安着点ヲ知リテヨリ其恐レハ暫時ニ止マル事ト相成申候(後略・傍線は筆者)


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