盛岡タイムス Web News 2013年  9月  5日 (木)

       

■  〈風の筆〉16 沢村澄子 新顔


 もはや、朝、庭に出るには長袖が欲しいようになった。

  雨ばかりの印象が強い今年の夏、寝苦しい夜がなくて身体は随分楽だったはずなのに、人間ぜいたくなもので、それならそれで何となく寂しいような、何か物足りないような気がしていないでもない。

  実家のある大阪からのはがきや電話には、この数日、悲鳴のような「暑い」「暑い」が乱舞。体温を超える気温が連日となり、夜になってもアスファルトの地表から熱は逃げづらく、この頃になると、皆が相当バテてくる。

  わたしの子どもの頃でも、大阪の夏は随分と厳しいものだった。布団の上にござのようなものを敷いてその暑さをしのごうとするのだが、それでも寝苦しくてそこから転がり出、部屋からも飛び出し、廊下の板に頬つけて朝まで寝ていて、よく親から「行儀が悪い」と叱られたものだ。

  小学生だった夏休み、毎朝ラジオ体操に通って朝食が済むと、「応接間」と呼ばれる小さな部屋に1人こもるのが好きで、誰も使っていないひっそり感と、パリッとのりの利いた白いソファーカバーの冷たい感じ。それから、揺れるレースのカーテンと、その向こうに咲く朝顔の花。子どもにとっては、そんなものたちが「涼しさ」だったのだろう。

     
   
     


  そんな記憶のせいか、大人になっても朝顔は親しい花で、春先に特に忙しくない限り、鉢やプランターにその年の朝顔を植える。去年は初めて西洋品種にしてみたが、土が合わなかったのか幾つも咲かず、今年はまた青や赤の花径の小さな日本種に戻した。

  朝顔の、花がいよいよ咲き誇る9月。しかし、盛岡に引っ越してきた当初は、この光景に随分当惑したものである。

  大阪では秋も重く濃くなって、毛糸のカーディガンをはおる頃に咲くコスモスが、盛岡ではお盆に咲いているし、「夏休みの花」だと思っていた朝顔は、随分と遅い。

  風に透明感が出てきて、どこか心細いような気配が漂い出す頃に揺れる朝顔の群れの、その哀れに胸の詰まるような日もあって、子どもの頃、烈しい夏にすがすがしさの象徴のように咲いていた花は、今や切なさの限りに心ひかれる花。

  ついご近所の畑のフェンスには、例年、小ぶりのピンクの花の朝顔がはっているのだが、そこへ昨日、大輪のが二つ、三つと咲いているのを見つけた。

  「新顔ですか」と伺ったら、「しばらく前から咲き出したね」と奥さん。「写真撮ってもいいですか」「いやぁ。早くにおいでよ。もっとピンピンしてるから。朝早くがいいよ」

  確かに、大きな花びらはもう、少しくたびれている。

  その時、チョウが来た。つい、其角の句を思い出す。
 
  蕣(あさがお)に
  しばしこてふの光り哉
   (蝸牛社『榎本其角』)

  お江戸の暮らしや朝顔のこと。チョウのことや光りのこと。一瞬、思いをはせたわたしの鼻先を小さな風が通り過ぎた。  

  新顔を揺らしながら、盛岡は秋だ。
   (盛岡市、書家)


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