盛岡タイムス Web News 2013年  9月  7日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉331 岡澤敏男 暁烏敏との邂逅

 ■暁烏敏との邂逅

  39年度の第8回花巻仏教会「我信念講話」(夏期講習会)の講師として暁烏敏を招聘するため、政次郎が佐々木哲郎の案内で巣鴨浩々洞を初めて訪れることになった。それは明治39年4月18日の午後だったと暁烏日記にみられる。初対面の暁烏敏はすこしひげをたくわえ細縁の眼鏡をかけていた。慈眼というのか、暖かに接するまなざしの奥に、相手の心を見抜くような眼光が感じられた。このとき暁烏敏は政次郎(32歳)より三つ年下の29歳だったが、浩々洞刊『精神界』の主幹であり、連載する「『歎異抄』を読む」の執筆者として広くその名が知れわたっていた。政次郎も『精神界』を購読していたので革新的な宗教家という期待もあり、面談しながら暁烏敏をわが求道の尊師にふさわしいと直感したのです。この日の日記には「今夏花巻の講習会に行く事を約す」とあり、講師を承諾したものとみられる。

  政次郎はその翌月の5月21日に「此間ハ参洞種々御高教ヲ蒙リ難有仕合奉深謝候」「何レ当夏ハ緩々御高教ヲ仰グ事ニ候ヘ共不取敢御礼迄」と暁烏敏宛に礼状を発信するが、注目されるのは宛名を「暁烏敏先生」と尊称し、「御座下」と脇付けしていることです。この後も暁烏の別号「非無」を添えて「非無先生」とか「暁烏非無先生」と尊称し、いずれの場合にも「御座下」または「尊下」と脇付けしており、暁烏敏を尊師とする敬愛の表れであろうかと推察されます。

  6月18日に佐々木哲郎らが花巻の講習会の日程表を持参して暁烏敏を訪れている。「午後、鈴木早苗、佐々木哲郎来。東北布教の日割を定む。花巻、(七月)十四日より十八日まで。盛岡、十八日 十九日。浄法寺、二十日より三十一日まで。大沢(温泉)。(八月)一日より十日まで」と日記にみられます。暁烏敏にとって花巻を訪れるのは初めのことだが、浄法寺へは4年前(36年)に「東北飢餓慰問行」の折に訪れており2度目の来訪ということになる。日記をみると若干の微調整はあったが、ほぼ日程表どおりに実施されており、どの会場でも100人余の聴衆を迎え布教の旅は満足すべきものであったらしい。浄法寺でも聴者は30余人あった。4年前には高橋勘太郎他3人の信者に過ぎなかったという。とりわけ花巻では宮沢マキ(政次郎・イチ・賢治、喜助・直治・せつ・恒治・磯吉・コト)のほとんど全員が積極的に参加し暁烏敏を喜ばしたらしい。暁烏敏は8月4日に新鉛温泉からの帰路、政次郎とコト(イチの末妹)が交わした問答を『明治三十九年日記』の表紙裏につぎのようにメモしている。

  政(次郎)曰く 心はいかに
  こと(コト)曰く 心は円きもの光るものにして内
  に仏あり(十二才)
  又曰く 妾は身体弱けれど心は強し。仏在せば也
  政曰く 人生の目的いかゞ
  こと曰く 母さんにたのまれて生れたり。仏、妾に
  行って来いと申されければ生れたり。この
  生に来れるは仏をほめ、世の人に平和を与
  へんが為也と
  少女の信、嘉すべきかな

  (八月四日) 花巻在住約2週間を学僧のごとく『我が信念』を講じ、僧良寛のように幼童と遊戯する尊師と共に過ごした政次郎は、法をも恐れず自在に生きる暁烏敏と邂逅し得た縁を、如来に深く感謝したものに違いない。



本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします