盛岡タイムス Web News 2013年  9月  14日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉332 岡澤敏男 暁烏敏との交流

 ■暁烏敏との交流

  明治39年8月、大沢温泉で開催された花巻仏教会の10日間にわたる夏期講習会を通じ、政次郎は暁烏敏を真宗求道の尊師とする絆を深く結んだが、暁烏もまた宮沢マキの知遇を得て、花巻を東北布教の拠点の一つとなし得たとみられる。そして今回の布教にあたり、暁烏敏は宮沢政次郎、高橋勘太郎、佐々木哲郎、小田島五郎を法弟とみなして各々に金蓮、寒石、萍雨、素雲の法号を贈っていることが『暁烏日記』(以後単に「日記」という)に記されている。暁烏敏の清沢満之ゆずりの学識と、平明な例えで講じる法話は聴者の心をとらえ、率直で飾らない暁烏敏の人柄とともに花巻の人たちに慕われたものらしく、その後も宮沢マキ(政次郎、善治、直治、恒治、磯吉)や佐々木哲郎、高橋勘太郎、小田島五郎たちとの頻繁な交信が「日記」にうかがわれる。政次郎は明治41年5月30日に上京し巣鴨の浩々洞を訪れ暁烏敏と歓談したらしい。「午後、花巻の宮沢政次郎来訪。友あり遠方より来たるの悦びあり。種々に語り合ふ」と「日記」にあるが、あるいは暁烏敏に対して42年秋に花巻再来を打診したのではなかろうか。

  この招聘(しょうへい)計画は明治42年春に小田島五郎(浄法寺)、赤沢亦吉(盛岡)とも協議して日程を決め、4月上京予定の宮沢直治・恒治兄弟にそれを託して伝達することにしたのでしょう。「留守中宮沢直治、恒治氏林檎を持ち来たり」と4月15日の「日記」にあり、16日の「日記」に「帰れば宮沢直治、恒治の二氏あり…夕飯を喫す」とあるので、前日は暁烏敏が不在だったので翌日、再度浩々洞を訪れて招聘の書面を手渡したことと思われる。その承諾の返事を求めた書簡を政次郎は8月10日に暁烏敏宛に発信した。頭書に「御承諾の御返事ハ花巻に被下度候」とあって「御願致居候当春機因未熟にて御来遊無之遺憾を是非当秋ハ私共初め尊師を知る者の総ての渇望を満たし被下是非々々御巡遊奉請上候」と来訪を要請し、さらに8月26日に「当秋御漫遊た之件御都合如何」と承諾を督促し「折角春以来ノ宿題にも有之成丈御都合被下御来遊奉願上候」と結び「尚為念申上候ハ東北ノ紅葉ハ大抵十月初メ尤モ宜敷其盛時ハ春花ノ及バザル風趣ヲ呈シ候」と紅葉の美観を追伸しているのです。暁烏敏は4年前のように浄法寺(10月24日〜25日)、盛岡(26日〜27日)、花巻(28日〜29日)を再訪することになったが、やはり追伸どおりの紅葉の美観を「日記」に絶賛しています。「沿道の紅葉美観言ふべからず、断岩に友禅を張りしが如くと言はんか」(10月24日)、「四里の国道満山紅葉して美観言うべからず。川あり、山あり、山に岩あり、岩に松あり、之の間に紅葉あり。京の友、郷の母や妻に見せたしと思ふ」(10月26日)と書き残しているのです。

  花巻での動向を10月28日の「日記」から抜粋する。「午後二時、安浄寺にて、慈光婦人会開かる。一昨年予の来たれる時に生れたる会にて、会員七、八名あるのみ。久しぶりにて諸姉妹の顔を見る、うれし。二席に亘りて親子の自覚を語る。この寺には、一昨年多田(鼎)兄五日間宿りしときく、なつかしく思ふ。

  夜、光徳寺にて講話会催さる。一昨々年宿りし寺の事とて感深し。二席に亘りて恩寵を語る。会者百余。了りて後、政、直等の諸氏来宿。久しく語る。花巻に入ること第二回目也。」

  ■『暁烏日記』(明治42年10月27日)より

 「予定 盛岡滞在。」
  「午前、高橋君等と語る。秀晴軒(秀清軒)にて洋食会開かる。赤沢、工藤、四戸、高橋、荒川、長岡、池野等の九人と共なりき。先年ここに会せし時にありし、村井、羅山二君今は亡し、あゝ。午後二時、説教場にて法話二席。昨夜につゞく。婦人達多し。帰りて揮毫す。夜は説教場にて法話二席、恩寵を語る。二百余名集まる。了りて後、道友十五、六、高与に集まりて久しく語り合ふ。夢あたたか也。

  内村孫三郎といへる人あり。獄にありて『精神界』の教化を受けし人也。私は多田さんが好きで、あなたが嫌であった。然るに「信濃川畔の黙想」をよむに及んで好きになり、慕望するやうになったといふ。妙なるかな。されど彼は恐らく予を全く知らざる也。」




 


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