盛岡タイムス Web News 2013年  9月  18日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉189 三浦勲夫 ヤマボウシ


 ヤマボウシはミズキ科の落葉喬(きょう)木で、夏に白い花(萼=がく)をつけ、秋に赤い実をつける。姿と名前が一致してからもヤマボウシの漢字は「山帽子」だと思っていた。それにしても平らで妙な形の登山帽であるなあ、と思っていた。しかし最近「僧兵、山法師、頭巾」の連想に思いつき、辞典を引くとヤマボウシは漢字で「山法師」であった。あの白い花(萼)は山法師の白い頭巾のようだから、名前のもととなったらしいことに気が付いた。

  白河法皇(11世紀)をして意のままにならない物の一つとして「山法師」と言わしめたほど、比叡山(延暦寺)の僧兵(山法師)は、事あるごとに日吉山王社の神輿(みこし)を担いで朝廷に強訴しその要求を思いのままに通していた。彼らがかぶった白い頭巾がミズキ科のあの喬木の名のもととなった。

  山法師が猛威をふるう前、その木(ヤマボウシ)は何と呼ばれていたかを考えるのも興味深いが、ここでは別のことを考えてみたい。白河法皇の手にかなわない「山法師」は政治の力であって、永遠の真理ではない。他に彼の手にかなわない物として「加茂川の流れ」と「賽(さい)の目」がある。この二つは永遠に人の手にかなわないものだろうか。かなう場合があるようだ。法皇は加茂川の氾濫を制することができないと言ったとされるが、これはダムの建設で止めることができる。「賽の目」はどうか。サイコロに細工を施して重心の位置を変えれば、ほぼ思いのままに望む目を出すことができる。

  人の世界観も容易にくつがえる。「風林火山」の「山」は「動かざること山のごとし」である。不動の山も地滑りや噴火や雨の浸食によって不断に姿を変える。ある写真家は言う。「富士山は時刻や天候によってその姿を千変万化する」。「マクベス」(シェークスピア)では「バーナムの森が進軍せぬ限りお前は不敗だ」と魔女がマクベスに告げる。そのバーナムの森が動いてマクベスは顔面蒼白(そうはく)、マクダフ軍に敗れてしまう。なぜか。マクダフ軍は森の枝を身に着け偽装して城に迫ってきたのだった。

  「動かざる物」と言えば「天動説」は大地を「不動」とし、天を「浮動」とした。地動説を唱えた学者は古代ギリシャのアリスタルコスに始まるが、コペルニクスとガリレオが代表的である。地動説がカトリック教会や異端審問所に迫害されたという説が強いが、必ずしもそうではないという説もある。ガリレオが軟禁処分を受けたのは処世に疎い彼が政争に巻き込まれたからという。彼が「それでも地球は動いている」とつぶやいた話も作り話らしいが、普遍的な科学的観察方法で地動説等を提示し「科学の父」と称されている。

  常識が覆されて新たな真理が生まれる過程を人類は繰り返してきた。9月11日で東日本大震災から2年半を経た。地球は宇宙空間を動くが、地球自体も内部や表面が不断に流動している。マグマ、大陸プレート、地震、津波。多少の地震が起きても「この地震による津波のおそれはありません」という報道が相次ぎ、津波はまず来ないという過信が生じた。そこへ千年に一度とも称される津波が襲った。常識を疑い、過信を戒めなければならないことを思い知らされた。人間は大宇宙、大自然の中で生かされている弱小な生き物である。自戒を込めて確認したい。(岩手大学名誉教授)


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