盛岡タイムス Web News 2013年  9月  26日 (木)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉73 菊池孝育 太平洋戦争開戦2


 1941年2月7日の日本政府による真珠湾無警告攻撃(attacking Pearl Harbor without warning)に対して、カナダ政府は「戦時臨時措置法(War Measures Act)」を発動、全ての日本人、日系人を「敵性異国人(Enemy Alien)以下敵性人と表記」と規定、市民としての一切の権利と自由を剥奪(はくだつ)、官憲の監視下においた。漁船の押収、邦字新聞の発行停止、日本人学校の閉鎖などに続いて、夜間外出・集会禁止、日本語での電話使用禁止などの措置を取った。

  「戦時臨時措置法」はカナダ連邦議会の名の下に発布される、いわば国家非常事態宣言のような、全ての法令に優先する措置法であった。過去において第一次世界大戦時に発令されたことがあり、今回は2度目であった。

  カナダ政府の取った措置を順に列記する。

  1942年1月14日、カナダ政府は「敵性人」政策の大綱を発表。それによると、太平洋沿岸から160`以内を「防衛地域(coastal defense zone)」と定め、敵性人を160`以東の内陸奥地に強制的に移動させるという内容であった。早くもBC州では、1月16日には沿岸地域の日系人男子の退去が始まっていた。

  同年2月24日、日系人のうち、18歳から45歳までの男子はBC州沿岸の「防衛地域」から直ちに立ち退くように命じられた。

  同年2月26日、日系人の一斉強制退去が始まった。24時間だけの猶予しか与えられないケースもあった。カナダ軍の「防衛措置(protective measures)」として自動車、カメラ、ラジオなどは没収され、厳しい外出禁止令が実施された。

  同年3月4日、日系人は「防衛措置」として、一切の財産を「敵性人財産管財人(Custodian of Enemy Alien Property)」に引き渡すように命じられた。

  同年3月16日、日系人の強制移動前の臨時集結所としてヘイスティングス・パークがあてられ、BC州沿岸から、いったんここに集められ、内陸奥地に移動させられた。ここはもともと馬検場であったといわれる。収容された日系人は一様に、家畜の臭いのする非衛生的な場所に収容されたと述べている。この日、最初の一団が収容された。そしてこの日から、郵便の検閲も実施された。

  ヘイスティングス・パークはイースト・ヘイスティングスとレンフルー通りの交差する周辺にあり、海運、陸路とも開けており、大量に人を集結させるには便利な場所であった。現在のバンクーバー万博公園(Exhibition Park)の場所と言った方が分かりやすい。

  ここに集められた日系人は、半年以上もこの場所で生活を強いられた者もいた。当時の居住スペースの写真を見ると、コンクリートの上に簡易ベッドがびっしりと何列にも置かれ、プライバシーのない、家畜のような共同生活であったことがうかがえる。しかも外部の競馬場には、接収された日系人の車やトラックが何十台と置かれ、後にカナダ人管財人によって、所有者の承諾なしに二束三文で競売に付された。売り上げは収容所の維持管理費に組み込まれた。

  同年3月25日、BC州保安委員会は収容者の男子を道路建設現場に送り、婦女子は内陸奥地の「ゴースト・タウン」に収容する計画に着手した。

  さて、BC州保安委員会とは一体いかなる組織だったのか。


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