盛岡タイムス Web News 2013年  9月  30日 (月)

       

■  〈新・三陸物語〉31 金野静一 気仙・三陸1


     
   
     

 わが国の正史たる六国史(りっこくし)の中の「日本後紀」の弘仁元年(810)の条に、左のような文があり、これこそが「気仙郡」という郡名の初見である。約1200年前のことだ。

  「陸奥国言う。渡島(おしま)の狄(てき)二百余人、陸奥の郡部下の気仙郡に来着す。当国はその所管に非(あ)らざるをもって、直ちに帰去せしめんとす」

  陸奥国は、神亀元年(724)に開府した多賀城の治下にあったので、気仙郡の軍司が二百余人の渡島の狄の来郡について、報告したものである。

  北海道の渡島から来たと思われる狄(蝦夷)に対して「当国の所管にかかわることではない」として、直ちに帰らせようと説得したところ、狄らは次のように言う。

  「時、これ寒節にして海路越え難し。願わくは、来春に到りて、本郷に帰らんことを欲すと…」

  ちょうど、これから寒い冬の季節を迎えるので、海の航路の風波を越えて行くのは、実に大変なことなので、来年の春になってから帰りたいものです、と嘆願する。

  「よってこれを許可することにした。したがって、狄らが気仙にいる間は、衣料や食糧は彼らに与えるように…」
といって、狄らの留任を許したのである。

  810年(弘仁元年)の10月27日の条であるが、この文書に初めて「気仙郡」という郡名が記されていた。いわゆる郡名の初見である。

  初見であれば、気仙郡の設置はそれ以前であることは確かで、それ(設置年代)は、平安時代ではなく、奈良時代にさかのぼるものとも考えられる。

  それと、この文書は、次のような事項をも考えさせる内容を持つ面もある。

  まず、この年に気仙を訪れた者は「渡島の狄、二百余人」ということである。

  渡島は、蝦夷ケ島すなわち北海道を意味するものであろう。

  「渡島の別種が南下して、海道夷の旧居に来到せるものなれば、またもって上古における海道夷と、渡島の狄との交情を推知すべし(吉田東吾氏説)」

  右はすなわち「渡島の別種」とは、北海道のアイヌ人種のことであり、これが同族であった「海道夷」の旧居の三陸海岸へ来たのは、以前からの交流による結果であろう、との解釈である。

  ここで問題となるのは「渡島」の読みとその場所である。

  読み方としては「オシマ」か「ワタリシマ」が考えられる。オシマだとすれば、北海道(蝦夷ケ島)を意味することになる。だが、ワタリシマだとすれば、歴史的にもかなり意味が異なってくる。

  ―古代史で著名な阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、日本海沿岸の蝦夷征伐を盛んに行ったが、その内容は「斎明記」によく登載されている。実はこの中にも渡島との地名が、しばしば出てくるのである―


本ページ掲載内容の無断転載を禁じます
ホームページに関するお問い合わせ、取材に関する情報は
E-Mail:hensyuu@morioka-times.com
盛岡タイムス宛てにお願いします