盛岡タイムス Web News 2013年  10月  3日 (水)

       

■  〈岩手からのカナダ移住物語〉74 菊池孝育 BC州保安委員会(BCSC)


 BCSCはBritish Columbia Security Commissionの略である。保安委員会の訳語は、当時の日系コミュニティーで広く使われていた。

  カナダ政府が「敵性人」対策の大綱を発表したのは1942年1月14日である。防衛地域から日系人を大挙移動させる実務を担うのが、BCSCであった。従って大綱と同時にBCSC設置が決定されたと考えられる。実際に同委員会が設置されたのは3月4日であった。組織は、3人のコミッショナーのもとに20人の諮問委員で構成されていた。諮問委員はBC州全域の各階層から選ばれた。

  BCSCのコミッショナーは、実業家のオースティン・C・テイラー、RCMP(連邦警察)高官のフレデリック・J・ミード、そしてBC州警察幹部のジョン・シラスで構成され、委員長にはテイラーが就任した。他の二人はアシスタント・コミッショナーとなっている。日系人の強制移動と収容は、諮問委員の意見を聴取した上で、この三者で合議されて決定されたが、実質的にはミードの手腕が、他の2人を凌駕(りょうが)していたようだ。ここに「防衛地域からの日系人の除去(REMOVAL OF JAPANESE FROM PROTECTED AREAS)」と題する小冊子がある。3人のコミッショナー名を列記したBCSCの公式報告書である。

  これによると、移動と収容は1942年3月4日に始まり、同年10月31日に終了したことになっている。[removal]は一般に退去と訳されているが、日系人をそれぞれの生活根拠地から、一切を奪って、根こそぎ強制的に移動させた実態から、除去あるいは駆除の訳語の方が適切であると考える。当時のカナダの為政者は、害虫駆除の感覚で日系人の排除を行ったものと推察される。

  1994年、ビクトリアのBCアーカイブズ(古文書館)で調査中に、この小冊子を発見してコピーした。日系移民史研究では見逃せない貴重な文献である。BCアーカイブズは、日本人観光客の多いロイヤルBCミュージアムに隣接している。

  アーカイブズに行くため同ミュージアムを通りかかると、2人のカナダ人が中庭で鉈(なた)を振るって大木を削っていた。何をしているのか聞いたところ、盛岡市に寄贈するトーテムポールを作っているところだ、との返事が返ってきた。私たち(筆者と盛岡大学の学生)は盛岡から来た旨告げると、先端の部分を指さして、幸運を呼ぶから触ってごらん、との返事が返ってきた。たぶん、現在盛岡城跡公園のトーテムポールに触った最初の盛岡市民は、筆者であったのかもしれない。

  さて、話題はBCSC報告書に戻る。

  同報告書の中身に入る前に、簡単にその体裁を記しておく。

  表紙の写真は、日系人収容地の一つであるカズロの果樹園で働く1人の日系労働者である。見開きの写真2葉は、線路脇で車窓に別れを惜しむ日系人と、スローカン地域(収容地の一つ)に到着したばかりの数家族の写真である。いずれも見ていて胸の痛む写真である。

  目次の前のページ上段に[REPORT OF BRTISH COLUMBIA SECURITY COMMISSION]とあり、中段に[March 4, 1942 to October31, 1942.]、下段には[Published by authority of the British Columbia Security Commission]と典拠を示し、次いで3人のコミッショナーの肩書きと氏名を記載している。 


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