盛岡タイムス Web News 2013年  10月  5日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉335 岡澤敏男 「妙法蓮華経」に感動

 ■『妙法蓮華経』に感動

  賢治は中学生の頃から北小屋にあった父の書庫に出入りして経典を読みふけっていたらしい。それは父に宛てた書簡のなかで「元来小生の只今の信も思想も父上の範囲を出ず申さず書籍とてもみな父上の読み候もののみを後にて拾ひ読み候のみに御座候」(大正7年1月2日)と告白していることでもわかる。

  大正3年の9月半ば頃、浄法寺の法友高橋勘太郎から父政次郎に贈られた新刊の島地大等編著『漢和対照 妙法蓮華経』も、父の書庫から賢治が手にして読むのも時間の問題であったのは間違いがない。賢治はその『漢和対照 妙法蓮華経』を感動をもって読んだらしい。その中の「如来寿量品」を読んだときに特に感動して、驚喜して身体がふるえて止まらなかったと言う。後年この感動をノートに「太陽昇る」と書いている」(「兄賢治の生涯」)と宮沢清六氏が述べているのです。
  ただ賢治が『漢和対照 妙法蓮華経』を手にした時期については賢治自身の書いたものがなく、いつなのか明らかではない。一時は大正2年9月説が流れたこともあったらしいが、当然ながら『漢和対照妙法蓮華経』が出版された大正3年8月28日以降がふさわしいわけで、『校本全集』の年譜も高橋勘太郎から政次郎へ贈呈された9月中旬を踏まえ、「九月(推定)」として「政次郎の法友高橋勘太郎から贈られてきた『漢和対照 妙法蓮華経』を読んで異常な感動を受ける」と述べ、「生涯の信仰をここに定めることになる」と記述されているのです。

  しかし同時に注目したいのは同様の認識を持って『年譜・宮沢賢治全集』を著した堀尾青史氏が次のように注釈したことです。それは「賢治年譜の問題点」(学燈社「国文学」52年2月号)の中で「妙法蓮華経がすぐ日蓮宗にいくわけじゃないから法華経が賢治の中で強く発展していくのは高農へ入ってから修了していく辺ですね。この時点では読んだということであつて―内部的に異常な感動を受けた、と言い切れるかどうかですが、目はひらかれたと思います」と対談者境忠一氏へ語っていることです。

  この堀尾談で気付くことは、『漢和対照 妙法蓮華経』を最初に読んだとみなされる大正3年9月の時点には感動を受けたことは確実だが、それは「目はひらかれた」程度のもので「内部的に異常な感動を受けた」のではなかったこと。そして「法華教が賢治の中で強く発展し」「生涯の信仰を定める」契機となるのは「高農に入ってから修了していく辺り」のことであろうという見解で、年譜に「以来、生まれ変ったように元気になり、店番もいとわず受験勉強にはげむ」とあるのは『妙法蓮華経』を読んで「異常な感動を受け」たことに接続するよりも、盛岡中学卒業後の賢治が進学できぬことに悩み「ノイローゼ状態となる。ここによって父も賢治の前途を憂え…希望した盛岡高等農林学校の受験を許す」とある年譜前段の文脈に接続するのがふさわしいと思われます。

  賢治は進学許可によって解放された心境を「東京」ノート70nには「勉強」とメモをし、また「文語詩篇」ノート44nには「受験準備」のタイトルで「青空、リンゴ、農学へ」「冬、オリオン」というメモをもって表現しているのです。まさに「以来、生まれ変わったように元気になり、店番もいとわず受験勉強にはげむ」と記述する年譜に合致することです。

  ■宮沢清六著「兄賢治の生涯」から抜粋

 「漸く病気も直って帰宅、店の番をしたり養蚕の桑つみを手伝ったりしたが、勝れない顔で悲しい歌ばかり創っている賢治を見て、両親とも商売はとても性に合わないと考え、盛岡高等農林学校に進学させる決心をした。

  いよいよ受験準備に取りかかった賢治に、その夏特筆すべきことが起った。それは父が常に宗教のことで尊敬していた高橋勘太郎という人から父に贈られた国訳妙法蓮華経を賢治が読んだことである。

  この本は前年から賢治が説教を聞いていた浄土真宗の島地大等の編輯したもので、その中の「如来寿量品」を読んだときに特に感動して、驚喜して身体がふるえて止まらなかったと言う。後年この感激をノートに「太陽昇る」とも書いている。以後賢治はこの経典を常に左右に置いて大切にし、生涯この経典から離れることはなかった。」(以下省略)




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