盛岡タイムス Web News 2013年  10月  9日 (水)

       

■  夢中翁がたり〈172〉 山田公一 盛岡水@


 212年前発生の「盛岡水」という洪水を最初に知ったのは、3・11の直前に開催されていた盛岡市先人記念館開催「山田美妙」企画展だった。明治期の作家山田美妙の父親・山田吉雄(武ともいう)は南部藩を抜け出して江戸に出て神田お玉ケ池近くの千葉道場に通った。歴史背景は昨年までの連載でも時々書いてきたが、その吉雄からみると2代前の山田吉穂(伊豆守)という神官が別当として奉仕していたのが大清水多賀辺りにあった「多賀神社」。

  さて、1801(享保元)年の盛岡城下は中津川の下の橋を最新式の方法で架け替えしたばかり、柱や水切り柱をも不要としたものだった。前年から東安庭や門などから石切となり、延々と続く豪雨は中津川、北上川、雫石いずれも大水を引き起こし、翌日暮れには中の橋仮橋の石垣は崩落した。しかし下の橋は橋の中心に据えた中の島石垣が少し残って、何とか橋の流失は避けられた。

  御厩(おんまや)という馬の訓練場は無論のこと、馬場町や杉土手、鷹匠小路、上衆小路などの藩士や町人の屋敷には水が急に湧くような勢いで流入した。人々は家具家財を諦め、流失を防ぐためか家を開け放しにして逃げ出す。2日目夜半には土手の下を鉄砲水が突き抜け、川原町、鉈屋町、十文字などの人々は大慈寺へ避難する。治水の神社「舟霊(ふなたま)堂」も流失、多賀神社の別当山田吉穂は就寝して気付くのが遅れ、隣人らとともに二階へと上がるが、それでも水かさは増していく。周りでは手を付けかねて見ていると、数人の若者が非常用の舟を見付けてくるが、慣れておらず思うように操れない。この時、家老の新渡戸丹波率いる一隊が現場に急行してきた…。

  参考 藩政史内史略、多賀神楽史(1935年発行)、南部藩勤王思想史(1)
(市民の歴史探究館代表)


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