盛岡タイムス Web News 2013年  10月  10日 (木)

       

■  徳清(盛岡市仙北)が修復終える 盛岡城解体材による明治建造物 本宅、土蔵にも使用の可能性


     
  震災後2年半かけてよみがえった徳清。しっくいの白壁は往時の盛岡城をイメージさせる  
  震災後2年半かけてよみがえった徳清。しっくいの白壁は往時の盛岡城をイメージさせる
 

 東日本大震災津波で、被害を受けた盛岡市仙北1丁目の徳清倉庫(佐藤重昭社長)の建物は、昨年6月から修復工事が行われてきたが、震災から2年半を経て元の姿がよみがえった。明治橋際にある建物は、盛岡城の勘定所を移築したものであることは知られているが、修復過程で土蔵を含めて全ての建物が盛岡城に関係する可能性が非常に高いことが判明した。徳清12代目の佐藤社長は「8代徳清は盛岡城の勘定所に出仕し、勘定所の建物を非常に気に入っていたと聞いている。本宅、土蔵を含めて見事な部材ばかり。これだけのものを短期間で用意するのは無理。私の考えでは全て、お城の部材を使っていると思っている」と、建物は盛岡の歴史を語る上で欠かせない財産であることを再認識している。

  徳清は寛文年間(1661―73)に、徳田村(現矢巾町徳田地区)の郷士・佐藤清右衛門(佐藤家の調査では1650年ころに生まれ1741年に90余歳で亡くなっているとある)が創業した。初代清右衛門は17歳の時、現在地にあった畳屋に奉公し独立、徳田屋清右衛門を名乗り、酒、みそ・しょうゆなどの醸造業で財をなした。

  6代目の徳次郎の時に盛岡藩の御用商人となり、8代徳清は藩の勘定所に出仕した。盛岡城は明治維新を経て1874(明治7)年に解体された。部材などは古道具屋に払い下げ、その後、徳清が解体材の一部を購入することになる。

  解体材を使った建設の開始時期ははっきりしていないが、完成したのは1887年だという。

     
  中庭に立つ12代目の佐藤重昭社長  
  中庭に立つ12代目の佐藤重昭社長
 


  佐藤社長は「明治7年に解体される際、8代目の意向もあって9代目が取得した。払い下げから5年もたって建て始めた理由は、南部さんに遠慮していたためと聞いている」と語る。

  8代徳清が愛し、9代清右衛門が心血を注いで建設した建物は、ケヤキとヒノキの太い木が使われていた。しかし、東日本大震災の大揺れで壁に亀裂が入り、壁土が大量に落ち、落下物で足の踏み場がない状態だったという。

  修復の過程で判明したのは、勘定所以外にも盛岡城の部材が使われていたこと、庭を造った後に仙北町商店街側の土塀や建物でふさぐように建てられていたこと。さらに道路の拡幅に伴う切り取り工事で、本宅が完成後にふたをするように「みせ」と呼ばれている建物で接続したことが、つなぎ目で明らかになった。

  佐藤社長は「修復と切り取り工事が行われるまでは、勘定所の建物、渡り廊下の先は別の建物だということは知っていた。今回、複数の建物の部材にも使われた。一商人が短期間で用意するには考えられないほど見事な部材ばかり、いずれも盛岡城の可能性が高い。土蔵についても使われている部材が素晴らしく、これも盛岡城の部材が使用されているはずだ」と語る。

  修復を終えたことに「残った部分はきれいに直され、漆喰(しっくい)を塗られた姿は盛岡城の姿を残している。貴重なものであると再認識し、大事にしていきたい気持ちを強くしている。消防法の関係で常時開放することは難しいが、市民の皆さんが企画し定期的に使うことは可能だと思っている」と話している。


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