盛岡タイムス Web News 2013年  10月  12日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉336 岡澤敏男 賢治と歎異抄

 ■賢治と歎異抄

  それにしても意外に思うことは、賢治が父政次郎に「小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と書簡の中で誇らしげに報告したことです。それは中学4年生であった明治45・大正元年11月3日のことでした。たぶんその『歎異鈔』とは父の書庫から借りて読んだもと思われるが、この時代としてはかなり早熟な16歳の少年というべきです。なにしろ真宗教団においては『歎異抄』を禁断の書として隠匿し、『聖教目録』のリストにも『歎異抄』の書名がなく、宗門の人々でさえ知られていなかった時代のことです。今では書店で容易に入手できる現代人にとってはとうてい理解しにくいことなのです。『歎異抄』が一般の人たちの目にもとどくようになったのは、真宗大谷派の僧侶となり宗門改革運動を提起した清沢満之と、その門弟たちの力によるものといわれる。なかでも満之の愛弟子だった暁烏敏が浩々洞発行の「精神界」に、明治36年1月号から43年12月号まで「『歎異鈔』を読む」を連載して、多くの人々に初めて『歎異抄』を紹介した労は大きかった。政次郎は「精神界」を通じて『歎異抄』を知り復刻版(蓮如本?)を所有したのかも知れない。また暁烏敏が明治39年8月の夏期講習会講師として来花し「清沢満之の我信念」「歎異鈔について」を語っており、政次郎は暁烏敏の口述で『歎異抄』注釈を学んだと思われる。さらに暁烏敏は明治44年に『歎異鈔講話』を上梓しており、この書も書庫にあったとみられ、賢治の学んだ『歎異鈔』とはこの注釈書による影響が大いにあったものと考えられる。いずれにしても、中学生の賢治が『歎異鈔』を読んだことは間違いなく、そして「第一頁を以て小生の全信仰」と父に宣言するに至ったものに違いない。

  しかし賢治はなぜ「歎異抄の第一頁を以て」全信仰の主柱に規定したのか。たしかに『歎異鈔』の第一章から第九章は親鸞の語録とみられ、その第一章(賢治の第一頁)の持つ本義を金子大栄(岩波文庫版『歎異抄』校注者)は「親鸞の行信の全体を述べたもの」で「第二章以下の語録も、第一章に攝(おさ)まるのである」と述べており、また「語られた真宗の要旨」という指摘などからみて「第一章(第一頁)」を全信仰とした賢治の抱負はなかなの慧眼というべきです。

  ところが、その頃の賢治は学業にいささか問題があったらしい。学校から父兄懇談会の案内が行くけれども、何も特別の話があるわけでなく、来るに及ばないと父へはがき(10月28日)を出している。しかし保証人の赤沢亦吉が(政次郎からの依頼なのか)10月30日に代理出席し、「成績平均71点、代数、幾何、化学は40点以下のものもあり注意を要する」と注意された旨、宮沢家に伝えたのです。おそらく父から賢治の学業について厳しい叱責があったものとみられる。そこで父の信頼を回復することを念頭に「御心配御無用に候 小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と発信したのではなかったか。『歎異鈔』をとりあげたことは、父と尊師暁烏敏とをむすぶ聖典でもあったし、父の信頼を取り戻すには絶好の条件だったとみられる。真宗の要旨である「本願を信じ念仏をまうす」という第一章を以て「全信仰」とすると抱負を述べた書簡は、父兄懇談会の日からわずか4日後の11月3日に発信されているので、いささかの魂胆を感じさせるのは否めないのではなかろうか。

  ■『歎異鈔』第一章(蓮如本)

 一、弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこゝろのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、たゞ信心を要とすとしるべし。そのゆへは、罪悪深重、煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆへに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆへにと云々。



 


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