盛岡タイムス Web News 2013年  10月  19日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉357 岡澤敏男 進学できぬ不満のやり場

 ■進学できぬ不満のやり場

  賢治は昭和5年頃の「東京」ノート、「文語詩篇」ノートに略年譜(盛中〜高農時代を回顧して)をメモしている。盛中時代の1年〜3年の欄には石の採集、岩手山登山や学校行事など活力ある生活の印象がある。しかし4年、5年の欄にはメモの書き込みも少なくなり、「文語詩篇」ノートの4年3学期の欄に「寄宿舎舎監排斥、橋本英之助」とだけメモされている。これはどういうことだったのか。

  橋本英之助(大正7年に家業の呉服屋を継ぎ襲名して橋本喜助となる)とは賢治の母方のいとこで賢治とは1年上級で4年間で3回ほど寮の同室だったという。「文語詩篇」ノートのメモの意味は、「謹みて橋本大兄に呈す/口を尖らしたる像及腰折五首」とデディケートし、そのうち3首の餞別歌を台紙に貼られた自分のポートレートに書き入れて、卒業まもない英之助へ贈った事が記憶されていたとみられる。餞別歌は写真台紙の右に「君は行く太行のみち三峡の/険にも似たる旅路を指して」、左に「さあれ吾はかのせまき野の白き家/白墨の粉にむせぶかなしみ」、そして写真右の余白に「しぐれする山のいでゆにはた雪の/かの野の路に君を叫びき」と書き込んでいた。英之助が「上級校進学をあきらめ家業の呉服屋(大津屋)をつぐべき運命にあるのを同情し、かつ励まして」(『校本全集』第十四巻)と年譜にみられるが、質屋・古着屋を継がねばならぬ自分を重ねていることはこれらの短歌が語ってくれます。

  4年生になって上級校進学を目指す学習で寄宿舎の空気もピリピリしてきたが、進学の目的のない賢治は教科書とは関係のない書物(文学・哲学)や雑誌(中央公論)などを読みふけっていたらしい。やはり母方のいとこにあたる宮沢嘉助は「賢さんは学校の成績が余りよくなかつた。というより寧ろ悪かつた様に思う。悪い筈だ。賢さんは学校の教科書などは殆んど勉強しなかつた。無心で勉強しているなと思ってのぞいて見ると私などには難しく到底理解の出来そうもない哲学書だった。それによく教師に反抗した」(「賢さんの思い出」・筑摩版全集「月報」4号)と、進学できないことの不満が学業放棄ばかりでなく教師への反抗に走る賢治を示唆しているのです。それが「寄宿舎舎監排斥」のメモだったと思われる。

  3学期になり寄宿舎の舎監が交替したとき、舎監の排斥運動を5年生の率先ではじまり、4年生も同調したというが、「年譜」によると「指揮を取った黒幕参謀は賢治」(当時1年生の藤原文三の談)とあるが、真夜中に舎監室の電灯を消したり、2階で床を踏み鳴らしたりしたらしい。やがて4、5年の寄宿生全員に退去が命じられ、賢治は北山の曹洞宗清養院に下宿することになるのです。 

  賢治の盛岡中学における学業成績を席次でみると、1年53/153、2年48/135、3年40/102、4年42/90、5年60/88であったと「年譜」に収録されている。しかも5年生の成績は88人中60席だから終りから数えた方が近く、欠席36日、遅刻早退1、操行が丙というから父政次郎のしかめ顔が見えるようだ。「御心配御無用に候 小生はすでに道を得候。歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」という宣言には、父の尊師暁烏敏が深く帰依する親鸞を盾として、その衣から開き直りする魂胆が透けて見えてきます。




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