盛岡タイムス Web News 2013年  10月  20日 (土)

       

■ 盛岡城解体140年〈1〉 三川合流地に築かれた城郭 荒川聡

     
  南部領盛岡平城絵図(国立公文書館所蔵。徳川幕府が正保元年(1644)各藩に命じて作成させた正保絵図の一枚)  
   南部領盛岡平城絵図(国立公文書館所蔵。徳川幕府が正保元年(1644)各藩に命じて作成させた正保絵図の一枚)
 

 2014年は明治7年(1874)に盛岡城が解体、払い下げられて140年になる。払い下げは城内の建造物だけでなく惣門や番所、堀や立木に至るまで城下全域にわたって行われている。全体の総量は膨大なものだったことは間違いない。それから140年が経過し城の痕跡は石垣を見る以外はないが、わずかながら盛岡市内に現存する払い下げ材などから城の様子をうかがい知ることができる。本連載では払い下げ材の行方をたどりながら、盛岡城を考えていきたい。(荒川聡)

  盛岡城は北上川、雫石川、中津川の三川合流地点に築かれた城郭で、内曲輪(うちくるわ)には本丸、二の丸、三の丸が構築された。内曲輪の北部には重臣らの屋敷を配置して外曲輪を構成。周囲には商業地、職人や同心屋敷、農地を含めた遠曲輪で囲う三重構造の城郭都市を形成した。これが今につながる城下町盛岡の原点と言えるだろう。

  盛岡市がこれまで行った発掘調査で、福士氏の不来方城から南部氏の盛岡城の大まかな変遷が明らかになってきた。

  それによると、不来方城が築かれたのは14世紀末ころ、丘陵の頂上から中腹にかけて構築され、15世紀末から16世紀前半にかけて丘陵の裾まで城域が拡大されている。16世紀後半に盛岡城の本丸付近の堀を改修し、腰曲輪のかさ上げが行われたという。

  盛岡城以前の不来方の原風景を「祐清私記」(盛岡藩士の伊藤祐清がまとめた史書、『南部叢書』には寛永元年(1624)2月初めに盛岡藩6代藩主信恩(のぶおき、1678−1707)に謁(えっ)し、7代利幹(としもと、1689−1725)の時に城下新田奉行、寛延2年(1749)2月に67歳で亡くなっていると紹介している)に次のように書かれている。

  「(不来方城の)北館と南館を小中野といい、北から南へ北上川が流れ、東から西に濁川(中津川)が流れ北上川に落合(合流)する。両川の間を小中野という。南館のある山は笹原で、所々に栗の木が生えている」。近世こもんじょ館の工藤利悦主宰は、この記述を「盛岡城以前の原風景」と話している。

  盛岡城は慶長4年(1599)に完成したとされているが、実際のところはっきりしていない。着工時期は文献によって多種多様で断定することは難しく、ここでは最も古いのは文禄元年(1592)、最も早いのは元和3年(1617)と、25年もの差違があることだけを紹介したい。

  盛岡城は盛岡藩3代藩主重直(しげなお、1606−64)の代に本丸が炎上している。完成して間もない時期だと思われるが、これにも寛永10年(1633)、11、13年の3説があり、炎上もしくは落雷により炎上と言われている。これについての史料がないことから1633年から36年の間に本丸が焼けたと幅を持って考えるしかない。

  寛永の火災の影響で、それ以前の史料については、あるとしても書き写し、確証を持って比較できるものがなく、推測に頼らざるを得ない状況という。この寛永年間に本丸の替わりとなる御新丸が造営され、同時に本丸の造営工事にも着手した。その後、明治維新で城を明け渡すまで、城、要害堀、門をはじめ延々と城や城地の修復、改修工事が行われている。


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