盛岡タイムス Web News 2013年  10月  24日 (木)

       

■  〈風の筆〉23 沢村澄子 「きんのふね」


 先週に続き、愛宕町、盛岡市中央公民館で開かれている庭園アートフェスタ(11月4日まで)の話。

  今回この催しで、わたしは庭の池に「きんのふね」を浮かべているのだが、これには大槌町で被災した娘さんの話が付いている。90%が実話で、2年半、彼女を少し離れたところから眺めてきたわたしの願いや空想も入った。彼女の手紙も織り込んである。

  最後は、試練を乗り越えようとする娘に、はるか遠くに漂う「きんのふね」が見える、という結びだから、つまり、今回池に浮かべた「きんのふね」は希望の象徴のようなものだから、この舟を決して沈ませるわけにはいかないのだと思いながら、わたしは舟を造った。

  発泡スチロールより強く、浮力のある素材を買ってきて、金のスプレーをシュシュッと吹き、カッターで切り抜きながらパタパタパタと組み立てる。仮に大雨が降っても、中に水がたまらないよう底は抜き、すのこにペットボトルの浮きを付け、さらに風に飛ばされないようにブロックの重し。形に不服も残ったけれど、とにかく、何が何でも沈ませるもんか、と思っていた。台風シーズンなので、台風が来たら舟の出し入れができるよう、釣りをする人から「胴長」も借りてきた。

  そして、搬入予定日、はやその台風が来た。会期前沈没は避けたいので、設置を翌日の会期初日の朝一番に延期し、台風一過のすがすがしい空気の中に、その「きんのふね」を浮かべたのだ。

  その時、一挙に分かることがあり、いろんなことが思われてきて、忘れる前に書き残しておきたい。「希望というものは壊れたらまたつくればいいんだ」ということ。何度でも何度でも、つくり直す。壊れないように守る、以上に大事な、つくり直すココロ。難というものが、逃れきれない、どうしてもこの世からなくなりはしないものなのだから。

  舟を造るのも初めてでしょう。すると、やっぱり、やってみないと分からないことがあって、わたしたちが「舟」だと認識している舟の形、というものは、当然「浮く」ということを計算した姿になっているのでしょうけど、さらに重要なことは、「人が乗る」ということだった。人が乗ることを前提に造られていない舟というのは、かくもリアリティーに欠けるものかと、大反省。そして次に、ならば、いつか、もっと大人数が乗れる船を造ってみたい、とも思われてくるわけです。

  現代美術は難しい、とおっしゃる方もあるけれど、鑑賞は自由です。どう見て、どう付き合ってもかまわない。その鑑賞(想像)の中身、鑑賞者が思うことの方が、作品(創造)なのかもしれません。

  これってなんだべか。なんでこんなことしてるのか。と、眺めていると、そろそろと、庭園のモミジも赤くなってきます。鑑賞しているアナタこそが、アーティストになってきますよ。  (盛岡市、書家)


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