盛岡タイムス Web News 2013年  10月  26日 (土)

       

■ 〈賢治の置土産〉338 岡澤敏男  「悪人正機」思想

 ■「悪人正機」思想

  盛岡中学の寄宿舎では上級下級の階級制度が厳しく、上級生のために1、2年の下級生は掃除、使い走りなど一切の雑用をつとめる習わしだったという。「一、二年時代の彼(賢治)は、そういう点ではじつに忠実で従順な下級生で、定められた仕事は何でも率先してまじめにつとめあげ、上級生たちからたいへん可愛がられ、重宝がられた。そしてその頃の彼は、教師の受けも非常によかった」(阿部孝『四次元』100号「中学生の頃」)と回想している。ところが『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編)には同窓生たちが、3年生以後の賢治について、手をつけられないやんちゃな悪童ぶる片りんを伝えているのです。

  賢治は教室において「腰に差した矢立から毛筆をとり出してはだれ彼れの見さかいもなく教科書やノートの裏などにらくがきをする癖があったので、よくクラスの中で物議をかもした」(大坪質郎)という。4年生の時に隣の席だった葛精一によると「英語の米原文学士の授業の時に、リーダーを立て、ナイフで一生懸命に自分の机に岩手山を彫っていて、先生に購読をあてられて、まごついて私に聞いたことがあった。それが英語の時間が済んでも、次の数学の時間も続けて彫っていた」と語っている。また3学期になって寄宿舎の5、4年生が起こした「舎監排斥運動」に際し5年の舎生に同調し「指揮を取った黒幕参謀」として賢治の名が取り沙汰される逸話も、ずば抜けた不満分子と注目されていたからだと思われる。この寄宿舎騒動の後に時期は不明だが「桐下倶楽部」が結成され、賢治の関与も浅からぬものがあったらしい。その桐の木は学校の裏門と雨天体操場の中間に柵に沿って数本並んでいたらしい。この樹齢15〜16年の桐の木の下に、寄宿舎を追い出された退舎組の気心知れた者たちが自然に集まるようになったという。この集まりに対して賢治が「桐下クラブ」と命名したことが吉田沼萍の記述(「桐下倶楽部」―と賢治君―『四次元』第二巻第五号)にみられる。その面々には、授業が始まっても一番後でないと教室に入らなかったという一癖ある者や、卒業を前に落第しそうな者も「落第も又快ならんや」という気概があったという。そんな何人かの門出を激励するため学年末の休暇に壮行兼残念会を花巻の台温泉で催したとき、賢治は紋付姿で「渭城の長雨の…」と送別の詩を吟じたと吉田沼萍が記述している。

  このような賢治と桐下倶楽部との絆は「文語詩篇」ノートの5年生の欄に〈九月 桐下にて霧の朝/村井(久太郎)、高橋(七郎)、佐光(佐藤光太郎)〉とのメモをのこし、晩年の文語詩未定稿「桐下倶楽部」(「校庭」下書稿一)の詩作もあることから、賢治の記憶の中には並々ならぬ存在であったのは確かです。進学する級友たちのまぶしさへの反動もあって桐下倶楽部の不満分子と交友し悪童ぶる賢治ではあったが、寄宿舎近くの豆腐屋の白痴の子「千公」をかわいがり、「ケンツァン、ケンツァン」と慕われる交情(吉田沼萍の記述)には、衆生を救済する弥陀の光背が感じられなくもない。学校における賢治の行状は担任から注意人物の一人と見なされ家庭に通知されているが、父ならば『歎異抄』第三章の「悪人正機」の思想を承知だろうから、その思想を包括させて「歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と宣言したつもりではなかったかと追記するのです。

  ■文語詩未定稿「桐下倶楽部」(「校庭」下書稿一)

 うらさむきさ霧のなかに
  気乗りせぬフットボールの
  幹彫れる 桐のま下に
  村久は さびしく立てり

 剥げそめし白きペンキの
  木柵に人人は倚り、
  朝方の フットボールを、
  さびしくもまもるなりけり

 一鐘のラッパは鳴りて、
  急ぎゆく港先生、
  白堊城 秋のガラスは、
  ひらごとにうつろなりけり、

 ただ白きそらのま下に
  桐の枝うごくともなく
  村久はなほもさびしく
  校庭を見まもりて立つ



 


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