盛岡タイムス Web News 2013年  10月  28日 (月)

       

■  〈幸遊記〉147 照井顕 津田龍一のブルー・エース


 1952(昭和27)年から続いている「LYON」というピアノ・バーが横浜にある。現在の店主・4代目の津田龍一さん(72)が、突然「開運橋のジョニー」に現れ、ビックリしたが、実は前日、僕も女房と休み中の「リヨン」に行って来たばかりで、メチャうれし!と抱き合った。ピアノも弾いてくれた。

  2011年「横浜(ハマ)のブルース」がカラオケに。かつては「渡辺プロダクション」や、その親が経営した「マナセプロ」専属だった龍さん。1973年、麻薬問題で入国できず急きょ中止になった、あの超有名バンド「ローリング・ストーンズ」の初来日公演の日、前座を演(や)るはずの、日本のバンドは、何を隠そう当時人気上昇中の「津田龍一とブルー・エース」だった。そのバンドは、1968年、小畑ミキ「恋のシーサイド」をヒットさせた。テレビのエレキトーナメントや日テレ音楽院の初代講師を務めたり、シャボン玉ホリディ、ヒットパレード、スター誕生などに深く関わってきた彼。しかし、テレビ歌伴のオーケストラ・アレンジを、1日10曲などと殺人的に仕事をこなしていた時、突然土砂降りの雨のごとく目に異状。医師から中心性網膜炎と診断され絶望、楽譜読み書きを断念せざるをえなく、芸能界から“蒸発”。42歳の時だった。

  ウエスタンカーニバル、芸術座、ACB、ドレミ、新世界、モンテカルロ、クラウン、梅田コマ劇場や、地方公会堂などさまざま、エレキから、ムードコーラス、ラテンロック、ジャズなど自分のバンドでの演奏ツアーが、走馬灯のように浮かんでは消える20年間の音楽ブランクは、彼にとってはどん底だった。

  楽に死ねる方法を考えながら、酒におぼれ、街をふらついていたある日、ライブハウスから聴こえてきたピアノで、ハタ!と心の目を覚まし、音楽の道へ復帰。すると彼の音を聴いた人が彼に「リヨン」をプレゼントした。そんなことから彼は「団塊の世代を癒やしたい」と、2009年「ひき潮」というCDを制作発売した。

  彼の祖父・三右衛門は台湾移民治安維持のボス。両親ともに台湾生まれ。そのことから彼・津田龍一(本名・竹津忠則)さんも台湾で1940年に生まれた。7歳の時に九州に引き揚げ、高校を中退して上京し、プロデビュー。
(カフェジャズ開運橋ジョニー店主)


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