盛岡タイムス Web News 2014年  4月   9日 (水)

       

■  〈口ずさむとき〉379 伊藤幸子 「真白き眉」


 床屋にて白き眉毛の端切るを問はれて吾は戸惑ふしばし     
                                 石川稔

 所属する短歌会では会員3千人の作品1冊の中から10首合評のコーナーがある。実力者が抽出した1首をA・指名者評、B・作者自解の弁、C・抽出者総評を述べるもの。

  作者とすれば、出来たての作品はみな秀作に見えて「これぞ会心の作」とにんまりするのだが、他の人の評を聞くと思惑が異なっていて落ち込んだり喜んだりの繰り返しだ。

  大正14年生まれの香川県の石川さんのこの歌に、神奈川県の昭和9年生まれの歌人が評を書かれた。「三国志の蜀志、馬良伝にいう白眉を思っての戸惑いと理解した。蜀の馬氏の兄弟五人はみな才名あり、特に眉の中に白毛があった馬良が最も優れていた。そのことを考えれば、たとえ端であっても切るには抵抗があるだろう」と三国志の世界へいざなわれた。

  89歳の作者の弁「年金をうける齢となり、日頃やりたかった書道や俳句、短歌とわたり歩き今日に到っている。白い眉毛は長命の証と思っているものを、端とはいえ切ってもよいかなどと死神のささやきの如き声に肝をつぶした」とあって作者の憤懣(ふんまん)がしのばれる。

  いや、作者はただ単に「白い眉毛は長命の証」と信じているだけで、別に三国志の英雄のことまでは思い及ばなかったのかもしれない。ただ、この評文が付いたことにより、ぐっと品格が増し、何か近付きがたい威厳が備わったように思われる。一つの作品に、例えば茶器の、壺であればそれを包む仕覆(しふく)の裂(きれ)を吟味したり、箱書きや箱の細工がとりもなおさず商品の価値につながってゆく。

  「真白き眉」ではもう一つ、岩手のわが「北宴」誌にて「年一度の盆の集いに弟は真白き翁の顔になりたり・鈴江幸子」に出合った。この評に私は「真白き翁の顔、わかるけれど『髪』と入れたい思いがする。子が親に似る道理はほろりとあたたかい」と書いた。ところが後日、作者より「真白き翁の眉となりたり、の誤植です」と手紙が届いた。「久しぶりに会った弟は、真白な毛の長く太い眉でした」とあり、編集委員の一人としてゲラ校正を見逃してしまった悔いにさいなまれた。

  本誌では今月、珍しく拙歌が10首合評に取り上げられた。「反射式石油ストーブに湯のたぎる人日ひと日人と話さず」というもの。A評者がちゃんと「じんじつひとひひとと話さず」と読んでくれるかどうか。正月七日の日常詠、白眉の詠にはほど遠い腰折れである。
    (八幡平市、歌人)



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