盛岡タイムス Web News 2014年  4月   13日 (日)

       

■ 〈ジジからの絵手紙〉60 菅森幸一 「青山町誕生」


     
   
     

 終戦まで、今の県営体育館付近は広大な練兵場「観武が原(みたけがはら)」を背に工兵第八大隊・騎兵第三旅団・陸軍病院をはじめ、後には陸軍予備士官学校など多くの軍隊が駐屯しており、今の厨川中前の踏切近辺にわずか8軒の農家が散在していただけという、完全に軍人の町だった。

  戦争が終わり無人となった兵舎に、外地から引き揚げてきた人々が入居するようになった。昭和21年4月から樺太(サハリン)や満州などからの無縁故引揚者が続々と「岩鷲寮」と呼んだ旧兵舎に入り、電気も水道もない厳しい生活と闘った。

  やがて進駐軍が盛岡にやってくると、米軍はもとより、米軍の宿舎として接収された盛岡高等工業専門学校(現岩大工学部)も旧兵舎に移り住むようになった。

  当時「下厨川」と呼ばれたこの地が現在の名称になったのは、時の県知事であった春彦一が漢詩「壁に題す」の一節「人間到る処青山あり」から引用し青山町という町名ができたという。

  旧兵舎の馬小屋に児童を集め青山教育所(現青山小)という学校ができるまでは、4`の道を歩いてジジたちの学校まで通ってきた級友が結構いたんだよ。
 


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