盛岡タイムス Web News 2014年  4月   16日 (水)

       

■  〈日々つれづれ〉218 三浦勲夫 車内読書


 今の時期、暖かいようでも室内はストーブを消せば寒い。戸外の方が暖かい。もっと暖かいのが戸外に停めた車の中だ。ゆったりと後部座席で本を読めば、時間はあっという間に過ぎる。本の内容と車のエンジンから書きたいテーマが見つかった。ぬくぬくした環境で全く別の激動の史実を思うことになったのは皮肉だが。

  コンパクトなエンジンが重い車体を高速で走らせる。当たり前のことが、昔はそうではなかった。1世紀前、2世紀前とさかのぼると、蒸気機関が産業革命をもたらした。汽車や汽船もエンジンを搭載して発展した。船の場合、帆船から汽船に至る発展にかなり年月がかかった。大きくて効率が悪い機関(エンジン)から、より小さくて効率がいいものが改良されて、鉄の汽船が可能になった。それまでは、汽帆船といって、機関のほかに補助動力の帆を張り、外輪(パドル)を付けた船も登場した。

  鉄製汽帆船の世界第1号は1843年の建造である。名はグレート・ブリテン号。英国のブリストルで建造され、ニューヨークやオーストラリアへと就航した。最後はアルゼンチン沖のフォークランド諸島に放置されたが、1970年にブリストルまで曳航(えいこう)されて復元した。港内に展示されている。鉄の船が水に浮かぶこと自体が驚異だった時代である。

  1840年代には、スエズ運河もパナマ運河もない。英国からアメリカ東海岸には直接、行けた。東海岸から西海岸へは南米の南端を回って太平洋岸を北上しなければならなかった。英国からの南太平洋航路はアフリカ南端を回って、インド洋から東南アジア、中国へと来航した。ペリーやハリスも米国東海岸から南米南端、東南アジア経由で来日した。北太平洋上で日米間(横浜│サンフランシスコ)を結ぶ航路はやっと1860年に始まった。それが幕府の「咸臨丸」だった。大量の薪炭や石炭を汽船に補給するため、日本へ寄港することは米国にとって切実な要求だった。欧米列強はインド、東南アジアや中国が最大の貿易目的地だった。

  鎖国時代に1841年から51年までアメリカ人たちと暮らした日本人がジョン・マンこと(中濱)萬次郎だった。土佐(高知県)から漁に出て、嵐で流された先が鳥島。5カ月後、アメリカの捕鯨船に救助される。当時、アメリカ西海岸は、ほぼ未開地で、捕鯨船はグアム、ハワイ、南米南端、大西洋岸を北上してマサチューセッツへ。萬次郎は14歳、英語の読み書きや世界地理、航海術を習う。幸運にも1849年からカリフォルニアはゴールド・ラッシュとなる。金を掘って帰国の資金を得る。新開地サンフランシスコから客船で出発、ホノルルに残した漁師仲間たちと合流。日本航路はないので上海へ。そこから自前の船を買い帰国。薩摩藩の取り調べを受けて入国(1851年)。10年間の単独異国生活だった。

  確かな英語力と明晰(めいせき)な学識は幕府や明治新政府に重用された。浦賀に来航したペリーの英語を通訳補佐する。正式の通訳ではなく補佐だった。身分が違った。正式通訳はオランダ語を介した。咸臨丸に乗り組む。薩摩藩校や土佐藩校で教え、明治政府の開成学校(東大の前身)の英語教授となり、航海術も教えた。激動期にあって裏方に回ったが、波瀾(はらん)万丈の生涯はまさにフロンティア・スピリットだった。


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